能登半島地震から半年、メディアが伝えない被災者たちの悲痛な本音と非情な現実
仮設への入居をめぐって、集落も人の心もバラバラになりかねない。そうした三井町内で6月6日に入居が始まったばかりの仮設住宅を訪れると、近くの三井公民館前で館長の小山栄(74)が1人でたばこを吸っていた。 小山に聞くと、避難所となったこの公民館には4人の避難者がいる(6月24日時点で2人に減った)。そのほかの住民はようやく仮設住宅に移ることができたが、避難所に仮設シャワーが設置されたのもつい最近のことで、小山自身も5月末まで避難所内で寝泊まりしていた。 輪島市では、今も380人が避難所で暮らしている。輪島市環境対策課の友延和義課長によれば、市内で半壊以上と認定された建物は1万6863戸。そのうち、公費解体の申請があったのは5442件。全国の過去の統計から推計すると、最終的な解体申請は全体の半数である8000戸以上になるとみているが、現状はわずか121戸しか解体できていない(解体申請・実施数は6月9日時点)。 友延によれば、公費解体が進まない背景には、能登半島の先端という地理的条件から調査や解体を行う業者が入るのが難しいことや、市内に宿泊場所を確保するのが困難なことがある。 同じ理由からだろうか。東日本大震災から半年後の被災地であれほど見かけたボランティアの姿も、輪島市内ではほとんど目にしない。 中心部や集落を歩けば、誰の助けも借りず、解体も修築もできず、今にも倒壊するかもしれない危険な家屋でひっそりと暮らす人々がいる。トイレと風呂が使えない自宅と、近くの避難所を行ったり来たりしながら生活している人もいる。 小山は、「在宅で避難されている方が、一番つらい思いしたんじゃないかな」と気遣った。「壊れた家で、なんとか部屋を1つ確保してっていうほうが生活は厳しいと思うよ。三井にはいまだに水が通っていない集落もある。このままではコミュニティーが壊れていく」 〈仮設住宅の非情な現実〉 一方で、輪島市外で避難生活を送る人にとっては、仮設にやっと「当たって」故郷に戻れることがまずは大きな一歩になる......はずだ。翌6月10日に輪島市役所で、1月に市内で取材した二井雅晴(60)とばったり再会した。 朝市に近い輪島塗漆器店「二井朝日堂」の店主である彼は、この5カ月間は避難先である金沢市内のホテル5軒を約1カ月ごとに転々とし、今もホテル暮らし。この間、店にあった輪島塗の大量の在庫と半製品をたった1人で運び出し、自家用車のハイエースで輪島と20往復して金沢近郊の倉庫に移動させたという。 そうしてようやく、輪島市内の仮設住宅が当たった。しかし割り当てられた仮設は「山の上で、道もひどいし、とてもじゃないけど住めません」と首を振る。被災後に金沢市内の病院に入院した母親(86)といずれ2人暮らしを再開するつもりだが、1~2人用の部屋は単身者にも手狭な約4畳半になるとも聞く。 二井は、立地の問題から別の仮設に入れてほしい、そして自宅の一部だけを公費解体できないかと相談するため、金沢を朝一番に出て輪島市役所までやって来た。聞けば、今も週に2~3回は金沢と輪島を往復しているという。 やっと故郷に戻れるというのに、「住めない」仮設とは一体どんな場所にあるのか。車で向かうと、二井の言う輪島市杉平町「サンアリーナ駐車場」の仮設住宅に行くには、亀裂の入った急勾配の坂道を上らねばならず、反対車線は陥没していた。高齢者がこの坂道を歩いて行き来するのは体力的に難しく、車がなければ買い物に出かけるのもままならないだろう。 駐車場に軽自動車を止める高齢男性2人がいたので、プレハブ式仮設の中を見せてもらう。4畳半ほどの部屋が1つ。小さなキッチンとトイレと浴室、それに電化製品が一式そろってはいるが、91歳と81歳の兄弟2人が生活するにはあまりに狭い。 前日に、辻田政俊が口にしていた「弱者に配慮のない割り振り」「知らない部落の仮設に入ったら、それこそ孤独死や」という言葉が思い出される。 仮設住宅には、一般的に音漏れがしやすいといわれるプレハブ式と、2年を過ぎても災害公営住宅に転用し居住可能な黒い屋根瓦付きの木造長屋型がある。2つのどちらに当たるかも、住民の間で不公平感が募る一因になっている。 しかし、市としてはプレハブ式と木造長屋型を等しく応急仮設住宅として扱っており、入居募集のときにどちらを希望するかも聞いていないと、輪島市まちづくり推進課の上畠茂雄課長は説明する。 どちらに割り振られるかは、「元の住居に近いかどうか」が一つの基準。そのほか、「全壊など被災の程度、高齢者のみ、要支援者など、細かくは言えないんですけど、いろんな基準を設けて点数を付けて選考している」。 車を持っているかどうかは入居募集の際に確認しておらず、山の上であっても「無料巡回バスは走らせているし、住めないということはない」。木造長屋型も入居期間は2年で、「住宅の造りとして」2年を超えても住めるというだけで、その後の活用方法は決まっていないという。 上畠によれば、「応急仮設住宅の当初の目的は、少しでも早く避難所生活を解消すること」だ。住民一人一人の事情に応じて、その全てに配慮しようとすれば「収拾がつかなくなる」と言う。市役所にかかってくる電話を受ければ30分、窓口では「座ったら1時間」という対応を、職員は毎日やっている。 市職員も程度の差こそあれ、ほぼ全員が被災しており、休み返上で働き続けてきた彼らの負担も想像に難くない。まちづくり推進課のドアに貼られた紙には、「入居要件に関して執拗な要求が続くと不当要求行為とみなし警察へ通報する場合があります」と赤い文字で書かれていた。