結婚後2週間で無職になって海外挑戦 「何百万円も使った」追い詰められた激動の5か月【インタビュー】
「航空券もホテルも食事も全部自腹で、ものすごい額のお金を使いました」
現在、200人を超える日本人選手が海外で戦っている。三笘薫や遠藤航らのイングランドや久保建英らのスペイン、堂安律らのドイツといった主要リーグだけでなく、さまざまな国、カテゴリーでプレーできる時代になった。15年前、まだ一握りの選手しかプレーする機会のなかった時代に、自身の地位を捨てて、果敢に海外に挑んだ男がいた。ジュビロ磐田、ベガルタ仙台でプレーした太田吉彰氏だ。約5か月間、ヨーロッパに滞在しながら、受けられた入団テストはわずか3クラブだけ。「今思えば行って良かったなって思うんですけど、当時は本当にもうノイローゼとまでじゃないすけど、精神的にも相当キツかった」という、苦悩と苦労に満ちた激動の日々を振り返る。(取材・文=福谷佑介) 【写真】「何百万円も使った」…激動の日々を振り返った太田吉彰氏の近影 ◇ ◇ ◇ 2002年に磐田ユースからトップ昇格を果たした太田氏は、4年目の2005年にはレギュラーに定着。2006年に32試合で9ゴールを決め、2007年には日本代表に初招集された。イビチャ・オシム監督の下で、同年7月のアジア杯メンバーにも選出。大会での出場機会はなかったものの、中村俊輔(当時セルティック)、高原直泰(当時フランクフルト)という海外組とプレーし、海外への思いを強くした。 「アジアカップに行って、海外でやっている人たちの影響で、自分自身もやってみたいなっていうのがありました。海外は自分自身の夢でもありましたし、最終的には自分で『チャレンジします』と決めました。怪我が治ってから試合にさほど出ていなくて不安もちょっとありましたけど、やれるっていう自信と、やってやるぞ、というワクワク感しかなかったです」 2008年は前十字靭帯断裂の大怪我を負ってシーズンの大半を棒に振った。怪我が癒えた翌2009年、戦列に復帰すると、シーズンの折り返しを迎えた7月末に契約満了で磐田を退団した。契約延長のオファーをもらいながら夢を追うことにした。2週間前に結婚したばかり。「すぐ呼ぶから」と新妻を日本に残して、欧州クラブとの契約を目指して単身渡欧した。ただ、この段階で移籍先クラブのアテはなし。現地でテストを受け、移籍先を見つけるという、半ば無謀な挑戦だった。 今でこそ日本人がさまざまな国、カテゴリーでプレーしているが、当時はまだまだ海外は狭き門。欧州でプレーしている日本人は数えるほどで、当然、よく分からぬ日本人の“売り込み”など門前払いが関の山だった。「全然受け入れられなかったですね。結局、5か月くらいヨーロッパにいて、受けられた入団テストは3つだけ。航空券もホテルも食事も全部自腹で、何百万円もの、ものすごい額のお金を使いましたし、ノイローゼになるんじゃないかってくらい精神的にも相当キツかったのを覚えています」。初めは希望に満ちあふれていたが、徐々に心は荒み、精神的にも参っていった。