「水戸黄門」は、酒に酔って気分が良くなると「浮浪者」を斬っていた!? 武士はどのくらい庶民を斬っていたのか
無礼があった場合は人を斬ってもやむなしとする武士の特権・「切り捨て御免」。しかし、実際のところ、武士はどのくらい庶民を斬っていたのだろうか? 「水戸黄門」として有名な徳川光圀は酒に酔うと浮浪者を斬るクセがあり、徳川家康の息子・松平信康も、「踊りが気に食わない」と庶民を殺したという。当時はどう判断されていたのだろうか? ■「野蛮な戦国時代」を描いた斬首シーン アメリカを拠点として、様々な海外作品に出演している日本人俳優・真田広之さんがこだわりぬいて制作した『SHOGUN』。先日、エミー賞で史上最多18部門を受賞して話題となりました。 ハリウッドにおいても、昔の日本を描いた作品は比較的多く見られるものの、「ハリウッド風にリメイクされた日本っぽさ」ではなく、あくまで日本人が史実をベースにして考えた「戦国時代の日本らしさ」が反映されている点で、『SHOGUN』は異例の「時代劇」といえるでしょう。 しかし「あのような戦国時代の日本は史実ではありえない」とする批判も当然ながらあります。たとえば、第一話の中盤あたりで登場するキリスタンの村民の首を、武士が刀でスパッと刎ねてしまうシーンには、「サムライは簡単に刀を抜いたりしない」、「刀で一瞬にして首を刎ねるには高度な技術が必要」という批判もあるようです。 彼らの言いぶんもわかりますが、あのシーンについては史実にそこまで忠実である必要はないと筆者には思われました。『SHOGUN』の第一話は、戦国時代の日本に流れ着いてしまった英国人航海士ジョン・ブラックソーン(コズモ・ジャービスさん)が、暴力が支配する恐ろしい「野蛮人」社会の洗礼を受けるという内容ですから……。 さて、それとは別に、今回は「無礼討ち」ともいわれた「切り捨て御免」の史実について考えてみましょう。 ■気分が良くなると浮浪者を斬った水戸黄門 「切り捨て御免」が制度化されたのは、江戸時代になってからでした。しかし江戸時代初期には、「刀の切れ味を試す」といって罪人の遺体をご自慢の名刀で切る習慣が残っていましたし、ときには生きた人間を辻斬りするのが趣味という武士までいたほどです。 「水戸黄門」として有名な徳川光圀も、数え年13歳の頃はそうした悪癖も持ち主だったようです。光圀は酒に酔って気分がよくなると、浮浪者を刀で襲っていました(『玄桐筆記』)。その後の彼は真剣に学問に取り組むようになり、若かりし頃の自分の所業を深く反省したそうです。 ■奉行所ではどう判断された? 江戸時代も進むにつれ、武士が庶民に斬りつけ、場合によっては命まで奪って、平然としていられる世の中ではなくなりました。江戸市中で武士が無礼な町人を斬った場合、周囲の者たちに取り押さえられ、町奉行所に連れて行かれるのがオチです。 そこで当人の主張と被害者サイドの話が吟味された上で、武士が有罪となり、切腹させられることも多々ありえました。庶民が必ずしも弱者ではなかった江戸という大都市らしい判定だといえるでしょう。ただ、そうした判定も土地柄が影響したかもしれません。 大河ドラマ『八重の桜』にも登場したヒロインの兄・山本覚馬にも、東山温泉(福島県会津若松市)で酔っぱらいに絡まれたことに激怒し、町外れまで追いかけてその者を斬り捨てたという逸話があります。しかしこの時の覚馬は無罪放免されているんですね。つまり、会津の地では、武士をからかった酔っぱらいに非があると判断されたということです。 それでもやはり圧倒的多数の武士は「簡単に、とくに庶民相手に刀を抜いたりしない」という選択をした気はします。 ■「踊りが気に食わない」と庶民を殺した松平信康 武士がどのくらい庶民を斬っていたのか、戦国時代についてはそこまで記録にはありません。ただ、徳川家康が正室・築山殿との間に授かった嫡男・松平信康について、ある逸話があります。 家康は1579(天正7)年に松平信康を切腹させていますが、信長の命令だったので仕方なくだったとされる一方、実は信康には「庶民の踊りが気に食わないから殺した」などの問題行動が多発しており、家康も死罪を与えるしかなかったという説があるのです。 やはり戦国においても領民は領主を支えてくれる存在であり、彼らの命をいたずらに奪うような行為は慎まれていたと思われます。
堀江宏樹