激動のバスケキャリアの果てに、長岡萌映子が選んだ“自分の生き方”。「私たちはアスリートである以前に一人の人間」<RS of the Year 2023>
トヨタ自動車時代に考えたプレースタイルの変化、人生の転機
2017年にトヨタ自動車に移籍した長岡萌映子。その才能・得点力に変わりはなかったが、彼女の平均得点(レギュラーシーズン)は移籍1年目11.83、2年目7.79、3年目9.60と、明らかに目減りしていく。スターぞろいのチームでプレーする難しさもあるだろう。しかし、彼女のプレースタイルは明確に変化した。それは実力的な問題だったのか、あるいは自ら下した決断なのか。その背景には、予想外のエピソードがあった。 ――トヨタ自動車に入った後、切望していた優勝を2回経験します。富士通からの移籍はいい選択だったと思いますか? 長岡:そうですね。表面的に見れば、(スコアラーから)陰に入ったと受け取る人は多いと思います。ただ、自分にとってはバスケにおいても個人の人生においても、大事な判断になったと思います。 ――プレースタイルの変化を感じました。それはレギュラー争いで優位に立てなかったからなのか、意識の変化からきたものか、どちらでしょう。 長岡:富士通からトヨタへの移籍が、私にとって一番大きなターニングポイントでした。富士通にはルイさん(町田瑠唯)がいて、周りで支えてくれるウィルさん(山本千夏)、リーさん(篠原恵)、シィさん(篠崎澪)、レイさん(三谷藍)もいた。その中で得点を取らせてもらっていたけど、トヨタじゃタイムシェアやメンバーの問題などあって、そうはいかない。その難しさはすごく感じましたね。 その中で、富士通と同じようにプレーして結果を残すことは、できたかもしれません。でも自分がどう生きていくべきか、考える必要があったんです。それは日本代表で学んだんですけど……。 ――何があったのですか? 長岡:2017年に日本代表としてアジアカップに出た時、ベスト5を取らせてもらいました。体の融通がきいて、いろいろなプレーをさせてもらっていました。でも……2018年の世界選手権の合宿途中で、私、病気が見つかったんです。それで、手術することになりました。 ――そうだったんですね。 長岡:そんな時でも、親善試合に向けた日本代表メンバーに、手術間もない状態で参加となる私を、トム(トム・ホーバス元日本代表監督)は選んでくれたんです。 ――戦力にならないかもしれない選手を選んだ、と。 長岡:そう。もう1カ月ぐらいプレーできていない。その中で選んでいただいて、試合の2週間前ぐらいに復帰しました。でも、復帰戦が対アメリカ代表だったんです。もう『どうしよう』っていう状況ですね(笑)。 そこで考えたんですよ、“自分がどうしたら生きていけるか”。体の融通がきかない状態で、どうプレーすればいいか。体力も筋力も落ちている中、この代表で何をするべきか。得点やリバウンドとかも考えましたけど、さすがにできません。 ――それは当然だと思います。 長岡:最終的にその試合であまり結果は残せませんでしたが、そこで一歩成長できた。いろいろな捉え方や感じ方を学んだ。それはトヨタでも一緒で、馬瓜エブリンがいて、馬瓜ステファニーがいて、安間志織、三好南穂、水島沙紀がいる。だから、自分がどう生きるか、すごく考える年になったんです。 ――主張するプレーが減ったなと、見て思っていました。 長岡:だって、1on1が大好きな選手の集まりでしたから(笑)。賛否ですよね、結局。富士通の時のようなプレーが見たい人もいるけど、プレースタイルが変わったと捉える人もいる。私も考えましたが、最終的に自分で魅力を感じたのが、ディフェンスとパスでした。周りに能力の高い選手がいるなら、自分はスコアラーにこだわるより、ここぞという時に1本決められる選手になりたい。そう思うようになっていったんです。