「巨人に行きたい」も…「それは駄目だ」 恩師の“鶴の一声”が変えた伝説左腕の運命
恩師が勧めた阪急からドラ5指名…入団会見で「早く10勝したい」
「ドラフト外が多くて、ロッテが4位で、ってことだったかな。まぁ、そんな感じだったんですけど、斎藤先生に『お前どこに行きたいんだ』と聞かれたんです。僕は巨人ファンだったし『巨人に行きたい』と言ったんですけど、先生は『それは駄目だ』って。『なんでですか』と聞いたら『ファン心理としてはわかる。だけど仕事なんだから、左(投手)の少ないところに行け、それだったら阪急がいい』と言われたんです」。それで阪急行きが浮上したそうだ。 ところが、今度は拓銀サイドに待ったをかけられたという。「『ドラフト3位までだったら出すけど、それ以外なら出さない』って話になったんです。それは無理じゃないですか」。巨人を含めて、ほとんどの球団がドラフト外での話。3位以内なんてとんでもない条件だったが、その流れを変えたのは阪急・当銀秀崇スカウトだった。「たまたま拓銀のマネジャーが当銀さんの後輩だったんです。阪急はドラフト外の予定だったんですけど、ドラフトにかければという話になったんです」。 1983年11月22日に行われたドラフト会議で、星野氏はドラフト5位で阪急に指名された。これで拓銀との問題もクリアになった。「ドラフト6位でもよかったんですけど、1個でもやりくりで、5位に無理矢理かけてもらった。ただ給料はドラフト外と一緒という条件でね」。旭川工・斎藤監督のアドバイスで一気に進んだ阪急入りだった。 「入団会見では斎藤先生に『プロで早く10勝したいと言ってこい』と言われて、恥ずかしかったけど言いました。でも本当にそうなったんですよねぇ」と星野氏はしみじみと話す。プロ3年目の1986年に9勝、4年目の1987年には11勝。そこから11年連続2桁勝利をマークした。「阪急だったから使ってもらえたと思う。全部、先生に言われたことが当たったんですよ」。振り返れば星野氏が高1の夏に野球部を辞めた時に引き戻すように指示したのも斎藤監督(当時は部長)だったし、まさに何から何まで……。 「斎藤先生は僕が阪神のコーチになってすぐくらいに亡くなりました。それまで10年くらい寝たきりでね。リハビリも頑張っていたんですけど、僕がお見舞いに行ったら絶対にやらなかったんですよ。たぶん、その姿を僕に見せたくなかったんだと思います。そこはプライドでしょうね。僕が現役の時は札幌に行くたびに球場に来てくれたんですけどね……」。恩師に導かれなければ「阪急・星野」は誕生していなかった。感謝の気持ちでいっぱい。生涯忘れることはない。
山口真司 / Shinji Yamaguchi