最愛の人が我が子を抱くことなく旅立ち『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子は悲しみのどん底に…「彼女の苦境をふっとばしたい」と服部良一が決意したこととは
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「シヅ子は穎右と結婚をし、子供を産み、家庭に入ることを決意した」そうで――。 【写真】「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」と話す趣里さん * * * * * * * ◆箱根へ 将来を約束した笠置シヅ子と吉本穎右は、晴れて一緒になる日を夢見て、互いに忙しい日々を過ごしていた。 エノケンとの初共演「舞台は廻る」を終えたシヅ子は、1946(昭和21)年5月に穎右と、マネージャーの山内義富と三人で箱根に静養に出かけた。 そこで穎右は来月早々、大阪に戻って、シヅ子とのこと、これからの仕事のことを「なるべく早く適宜に処理します。あとのことは、どうかよろしくお願いします」と山内に頼んだ。 その後、準備を整えた穎右は大阪へ帰ることに。6月16日、シヅ子は山内とともに、琵琶湖まで見送った。 湖畔の宿で一夜を過ごし、翌朝、大津駅での別れ際、穎右は「では、ちょっと行ってくるさかい……秋には東京へ帰れるやろ」と車窓から手を振った。 しかし、それが永遠の別れになるとは、シヅ子も穎右も思ってもいなかった。 この頃、すでに穎右は、学生時代に患って完治していなかった結核が再発していたのである。
◆穎右の子を宿す それからのシヅ子は多忙を極めた。「スウィングの女王」の完全復活に、戦前からの贔屓、戦後になってからのファンが喝采を送っていた。 9月18日から、有楽町・日劇で、シヅ子をメインにしたレビュー・ショウ「スヰング・ホテル」(作・演出・金貝省三、音楽・谷口又士ほか)が開幕した。 共演は、戦前から活躍していたハワイ生まれの日系ダンサーで歌手のヘレン本田、戦前の日活京都のトップスターだった深水藤子、そして、シヅ子の後輩でもあるSKDの星光子。 この華やかなステージが千秋楽を迎えたのが10月7日。 この頃、シヅ子は妊娠に気づく。穎右の子を宿していたのだ。シヅ子は、穎右と結婚をして、子供を産み、家庭に入ることを決意したのである。 さて、服部良一もまた音楽家として多忙な日々を送っていた。 1946年3月、コロムビアから柴田つる子と岡本敦郎の「青春プランタン」(作詞・サトウ・ハチロー)、5月にはエノケンと池真理子の東宝映画主題歌「幸運の仲間」(同)、7月には二葉あき子と近江俊郎の「黒いパイプ」(同)、11月には藤山一郎の「銀座セレナーデ」(作詞・村雨まさを)と次々とレコードをリリース。 特に「黒いパイプ」と「銀座セレナーデ」は大ヒット、服部はレコード、舞台と大忙しだった。
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