最愛の人が我が子を抱くことなく旅立ち『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子は悲しみのどん底に…「彼女の苦境をふっとばしたい」と服部良一が決意したこととは
◆ジャズ・カルメン この頃、服部は、名作オペレッタをジャズ・ミュージカル化しようと音楽的な野心を燃やして、東宝のプロデューサーに提案。 それが1947(昭和22)年1月28日からの日劇公演「ジャズ・カルメン」として実現した。 演出は宝塚歌劇を育てた白井鐡造、振付はベテラン舞踊家・益田隆。 カルメン(笠置)、ホセ(石井亀次郎)、エスカミリオ(林伊佐緒)、ミカエラ(服部富子)、ラスキータ(暁テル子)のキャスティング。 服部の自伝「ぼくの音楽人生」(93年・日本文芸社)から引用する。 「そのころ、笠置君は、吉本興業の社長の子息で早稲田の学生だった吉本穎右君と相思相愛の仲になっていた。先方の親の反対で正式結婚は難行していたが、状況は好転していた。結婚を前にして、最後の舞台では、はなばなしくカルメンを演じたいという彼女の懇望に、ついにハラボテ・カルメンとなって日劇に現われたわけである。」 服部渾身の「ジャズ・カルメン」は、もともと1946年9月に上演予定で準備が進められていたが、東宝の組合ストライキで延期になっていた。 穎右は、身重な身体ではもしものことがあったらと心配、しかし主治医・櫻井先生が楽屋に詰めて、何かあればすぐに対応することで、シヅ子も出演を決意。カルメンを演じることへの情熱が湧き上がってきたのである。 この時、シヅ子は妊娠6ヶ月だった。
◆最愛の人との別れと新たな生命 シヅ子は、石井亀次郎のドン・ホセを向こうに回して、ジャズ・アレンジされた「ハバネラ」や「闘牛士の歌・トレアドール」をスウィンギーに、パワフルに熱唱した。 とはいえ舞台の袖では主治医・櫻井先生、マネージャーの山内が固唾を飲んで見守る毎日だった。 このカルメンの上演中、穎右は上京の予定だったが、それも叶わずに、シヅ子は臨月を迎えた。しかし穎右は、治療の甲斐もなく、1947年5月19日、23歳の若さで旅立ってしまった。 シヅ子は深い悲しみのどん底に突き落とされてしまった。最愛の人・穎右が我が子を抱くことなく亡くなってしまったのだ。 シヅ子は病室の机に穎右のポートレートを飾り、穎右が着ていた浴衣を部屋にかけ、最愛の人を思いながら6月1日。女の子を産んだ。愛娘・亀井ヱイ子である。 シヅ子は愛娘のためにも、穎右のためにも、そして自分のためにも、泣いてばかりではいけない。一日も早くステージにカムバックしようと決意した。 早速、シヅ子は服部良一に、いつもの明るい笑顔で「センセたのんまっせ」と頭を下げた。 そこで服部は「彼女のために、その苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうと決心した」(「ぼくの音楽人生」93年・日本文芸社)。 何か明るいもの、心ウキウキするものをと、笠置シヅ子の新曲を書くことにした。 ※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。
佐藤利明
【関連記事】
- 『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子が吉本創業者の息子と一つ屋根の下で暮らした期間はあまりに短く…不治の病と空襲の恐怖になぜ二人は打ち勝てたのか
- 戦争が終わって最愛の人と一つ屋根の下。服部良一も戻り「喜劇王」と共演…『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子にやってきた<人生最良の日々>とは
- 養母と弟を失った『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子。仕送り増額のために移籍オファーを受けたら大騒動に…シヅ子に相談された服部良一が見せた「覚悟」とは
- 『ブギウギ』モデル笠置シヅ子と待遇改善のために高野山へ立てこもった飛鳥明子。伝説のプリマドンナでシヅ子いわく「神様」…その29年の生涯とは
- 神野美伽「笠置シヅ子さんは引退を決意、出産4ヵ月前に舞台に立った。33歳の節目に〈辞める〉と決めて気づいた歌の大切さ」