【プレイバック’14】「壁をつき破って1mの岩が…」広島土砂災害現場ルポ〝被災者たちの慟哭〟
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は10年前の’14年9月12日号掲載の『総力密着ルポ・広島土砂災害 絶望と捜索の現場で聞く慟哭の声、声、声…』を紹介する。 【災害の爪痕】自宅1階が泥水に埋まったそのときは…被災男性の「証言」 ’14年8月19日夜から20日の明け方にかけて広島北部を襲った未曾有の集中豪雨は大規模な土石流を発生させ、山沿いの住宅街を飲み込んだ。発生から1週間あまり経った災害の現場を本誌は歩いた。(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。 ◆「そこに立ってたら死んどった」 当時の被災地の様子を、記事ではこう振り返っている。 《JR可部線の山側で甚大な被害が出た八木地区。いたるところに土嚢が積まれ、その間を水が流れている。被災した男性 (当時70、以下同)が当日夜を語る。 「1階に夫婦で寝とったんです。そしたら、2階で寝ていた娘が『なんか変だよ!』と叫びながら下りてきた。あわててカーテンを開いたら前の道を車が流れよる。そしたらドカーン、ガチャーンと音がして、1mほどの岩が階段のすぐそばの壁を突き破って転がり込んできた。そこに立ってたら死んどったかもしれん。家内がパニック起こして台所に走ったんで、娘が『そうじゃない! 階段!』 と必死に叫んで2階に上がらせた。1階はもうヒザまで水がきていたんです」 また、同地区で48歳の息子を亡くした男性(77)はこう漏らす。 「いま、1人暮らしだった息子の遺品整理をしてるところですわ。自宅から5mほど離れた駐車場の脇に埋まっとった。消防の捜索で見つかって、顔はヘドロと切り傷だらけじゃった。ワシはハンカチに水を含ませて、とにかくキレイにしてやりたい一心で何度も拭いたよ。自然に涙があふれてきたわ……」》 とくに被害が甚大だったのは八木地区や緑井地区を含む安佐南区と安佐北区の可部東地区だった。これらの地区に、あわせて50万㎥もの土石流が流れ込んだ。流れの速さは平均時速40㎞。瞬間最高速度で140㎞超にもなったという。 《「寝ていたら突然土砂が流れこんできた。私は家具に引っかかって外まで流されなかったけど、気づいたら妻の姿は見えなくなっていました。明るくなってから200mも下の側溝の橋部分に、立つようにして引っかかっている姿で発見されました。顔には苦しんだ様子はなかった。苦しんだのも30秒とか40秒とかだったかもしれません。診断書には、窒息と骨折数ヵ所と書かれていました」 静かな口調で語る緑井地区のSさん(80)は、喪服姿で家族とともに被災地にいた。亡くなった妻の範子さん(77)の初七日を済ませてきたところだという。同居していた息子さんが言う。 「母がみんなの代わりになってくれたのかも、とも思います。……でも、(死の)実感がないんです」》 ◆原爆ドームのほうまで流された遺体 八木地区の北の可部地区に足を伸ばすと住民たちが黙々と復旧作業に取り組んでいた。土嚢作り、土砂のかき出し、がれきの撤去、土嚢積み……。いくら作業をしても遅々として進まない。人手がまったく足りていないのだ。 《「もう戦場だよ!」 一家総出で復旧作業に取り組んでいるKさん(59)が言った。記者も「手伝わせてください」と申し出て土嚢を作り、休憩中に話を聞いた。 「朝7時から二次災害を防ぐための作業を暗くなるまでやって、夜は避難所生活だ。山の奥の防砂堤は土砂で埋まって役に立たない。川が決壊してものすごい土石流が流れてきたんだ。水道管も破裂した」 Kさんの家から50mほど先では、家が倒壊して死者が出た。 「老夫婦と娘さんが住んどった。翌朝、近所の者で助けに行こうと話し合っとったんだけど、土石流がひどくてどうすることもできなかった。9時にやっと消防がきて、土砂の中から奥さんと娘さんは助け出されたが、旦那さんは生き埋めになっとって助からんかった。もう一人、別の家の80歳くらいの爺さんは、川を伝って原爆ドームのほうまで流されて遺体で発見されたよ。ここに住んで60年。まだ夢みたいな感じだよ」》 このとき、復旧作業がなかなか進まない中で台風シーズンが迫っていた。妻と子供2人、母親の家族5人で避難生活を続けていた八木地区のTさん(54)はこう語っていた。 《「あの夜は家を出て、最初は車で逃げようとしたんです。遠くから見たら平地に見えたんですけど実際は泥水が溜まっている大きな水たまり。そこに車で突っ込んでいたら死んでいたでしょうね。車を置いて家族で、裸足で避難所に向かった。いまも家内や母が、住んでいた家に戻ろうとしないんです。私が一緒だと家に物を取りに帰ることもあるんだが、1人だと『怖くて行けない』と。雨が降るでしょ。すると、『怖い』と怯えるんです」》 また、取材の時点で安否不明だった娘夫婦を心配して、他県から駆けつけた母親の姿もあった。災害発生から1週間以上経っても被災者や遺族たちはまだ安らげない日々が続いていた。 ◆’18年の豪雨では200人以上の死者も 行方不明者の捜索はこの後も3週間ほどにおよんだ。77人(うち3人は災害関連死)という死者は土砂災害では過去30年間で最大規模となった。もともと広島市は平地が少なく、人口の増加によって’70年代から宅地開発が進んでいた。被災地域はそんな山際まで新興住宅地が発展していた地域だった。 とくに被害の大きかった八木地区では砂防ダムが未整備だったこと、土地所有者の反対などから土砂災害警戒区域の指定が進んでいなかったこと、避難勧告が遅かったことなどが被害拡大の要因として指摘された。現在では砂防ダムの整備が進み、また法改正によって地元の合意がなくとも警戒区域に指定することが可能になっている。だが、その一方で広島県内では特にリスクが高い「土砂災害特別警戒区域」で暮らす人は現在でも12万人にのぼるという。 また、この広島の土砂災害をきっかけに「線状降水帯」というワードが広くメディアでもよく使われるようになった。近年では線状降水帯による豪雨被害は毎年のように起こっている。とくに被害の大きかった’18年7月の『西日本豪雨』では広島、岡山、愛媛など広い範囲で被害をもたらし、200人以上が亡くなった。つい先日も9月20日からの『能登豪雨』で大きな被害が出たばかりだ。 今や日本という国は常に豪雨災害のリスクにさらされているのだ。
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