「それでも人生は続く」 放射能から逃れ友と引き裂かれた少女…福島と能登への思い #知り続ける #ydocs
今なら分かる両親の決断それでも「福島に帰りたい」
絵理奈さん一家が埼玉県に居を落ち着けるまでの1年あまりに、実に8回移動していた。 「小高の家から逃げるときは、まさかこんなに長期になるとは思っていなかったんです」 絵理奈さんは振り返る。 「後から知ったのですが、震災当日(11日)の南相馬市小高区では、原子力緊急事態宣言が出たことはもちろん、原発が大変なことになっているという情報は一切ありませんでした。SNSも今ほど発達していませんでしたし、テレビはローカル放送で津波の被害ばかりを伝えていました。近隣の双葉町、浪江町、大熊町は、役場の指示で早い段階から避難を開始していたそうです。 私たち一家は、原発関連の会社に勤める父の知人から事故の情報を聞き、12日朝に避難することができましたが、テレビや防災無線で1号機の水素爆発(12日午後3時36分)を知ってから避難した小高の人たちの中には、荷物をまとめることすらできなかった人もたくさんいたんです」 「ただ、私も家族も原発が爆発したらどうなるかなんて全く想像できていませんでした。半信半疑で『とりあえず避難しよう』といった感じでした。私は『中学の入学式もあるから、きっと1カ月もしないうちに家に帰れるだろう』と軽く考えていました」 実際には、絵理奈さんが生まれ育った南相馬市の我が家に再び足を踏み入れることができたのは、それから1年半後の2012年9月のことだった。警戒区域が見直され、南相馬市小高区への立ち入りが時間制限付きで許されたのだった。 福島から離れることなど想像もしていなかった絵理奈さんにとって、二本松市の中学校で出会った親友・萌祐さんとの別れは、痛切な思い出として胸に刻み込まれている。 「二本松には9カ月しかいられなかったけど、友達がたくさんできたし、本当に大好きな場所でした。ここでずっと暮らしていくと思っていたので、両親が埼玉に逃げると決めた時、心の中は『嫌だ。何で?』ばかり。一方で、怖いという気持ちも同時にあったんです。ここにいたいけど怖い、みたいな。 その頃には、放射能は目には見えないけれど恐ろしいものだということがわかってきていた。両親は毎晩遅くまで話し合っていたし、私と妹の安全を考えてのことだったので、強く反対できませんでした。その後、埼玉の中学に転校しましたが、3学期からの転入だったので馴染むことができなくて…。 懐かしい小高の風景や、萌祐ちゃんたちとの楽しい日々を思い出しては、ぼんやりと過ごしていたように思います」 そんな絵理奈さんも、中学3年生になる頃には埼玉の生活に慣れてきて友達も増え、高校は埼玉の公立高校に進み、充実した3年間を送った。その後も神奈川県内にある大学に進学し、横浜のI T関連会社に就職。今ではすっかり都会の生活に馴染んでいるようだ。 「大人になった今、当時の両親の決断の理由がよく分かるようになりました。外部被曝と内部被曝の違いとか、体内に蓄積された放射性物質の影響が今後どのような形で出てくるかわからない、といった知識も増え、本当に恐ろしい状況の中で私たちは逃げ惑っていたんだということがわかってきました。私が親の立場でも、子どもの未来のために少しでもリスクを減らす判断をしたと思います」 「今思えば、子どもは環境が変わっても順応するチャンスがたくさんあります。小高で生まれ育った両親や祖父母の方が失うものも大きかったし、私たちよりずっとつらい思いをしてきたと思います。我が子の安全のために苦しい決断をしてくれた両親には、本当に感謝しています」 その一方で「それでもやっぱり福島に帰りたかった」という思いは消えなかったという。 「高校受験、大学受験と、人生の節目を迎える度に『福島に帰りたい』という思いが頭をもたげてくるんです。高校受験の時は、『お父さんが暮らしている南相馬の仮設住宅に一緒に住んで、原町高校(南相馬市)に行きたい』と言って母を困らせました。自宅がある小高はまだ放射線量が高く、立ち入りはできても宿泊は禁止されていました。復興関連の仕事で忙しい父は単身赴任生活の負担も大きく、頭の中では『今は帰れない。これ以上わがまま言っちゃダメだ』と分かっていました。 でも、避難先の学校に馴染めず福島に帰る同級生もいたし、いろんな情報や思いがぐるぐると渦を巻くようで、夜中に自分の部屋で泣いてしまうこともありました」 「大学では生物資源科学を専攻しました。福島の豊かな自然が大好きだから、自然に役立つことを学びたいという思いがありました。そして満を持して福島で就職する、と決めていたのですが、コロナ禍になってしまって…。 当時は県外に移動することすら白い目で見られるような状況だったので、福島で就職活動をすることができず、泣く泣く諦めました」