川口和久・金石昭人・小早川毅彦の深掘りトーク! お題「山本浩二さん、衣笠祥雄さんはすごかった!」【昭和ドロップ・広島カープ編】
すごかった浩二さんの観察眼
左から小早川さん、金石さん、川口さん
前回は亡くなられた古葉竹識さんの思い出話をお願いしたが、今回はカープを代表するスーパースター、山本浩二さん、衣笠祥雄さんをはじめとするカープの先輩方の話になった。ただ、さまざまな流れの中で、やっぱり最後はあの鬼軍曹の話になる……。 構成=井口英規 ──1985年限りで古葉さんが退任されましたが、そのあと監督となった阿南(阿南準郎)さんは、どんな監督でしたか。 金石 怒ったのを見たことないし、本当に物静かでしたよね。 川口 そうそう。多くを語らない人だったよね。阿南さんが監督になったときに「古葉野球を継承します」と言ったのを覚えている。だから、みんな今までどおりやっていればいいと思ったし、やりにくさはなかったよね。当時の主力クラスは野球をよく知っている選手ばかりだったから、古葉さん時代のマニュアルどおりにやればよかったというのかな。 小早川 でも、これという判断を下すと変えない人でした。野手は、ほとんどメンバーを入れ替えなかったです。 金石 阿南さんは86年から3年間監督をやられて最初の年に優勝ですよね。僕はその優勝の年に、初めて一軍でずっと使ってもらって12勝を挙げたんですよ。 川口 鮮烈デビューだったな。防御率も北別府(北別府学)さんの次で2位だったよね(2.68)。あの年は新人王を獲った長冨(長冨浩志)もいた。 金石 チーム防御率も確か2点台後半(2.89)で、まさに投手王国でしたよね。 川口 あの年は俺も12勝しているんだけど、甲子園の阪神戦で肩を壊して終わっちゃった。日本シリーズも出ていないんだよな。 ──金石さんにとって86年はプロ8年目です。やっと2ケタ勝てた、という感じでしたか。 金石 そうでしたね。でも、最後は巨人と競って負けられないゲームが続いたんで、自分がやっと2ケタ勝ったとかは思わなかった。シーズン終わってからですね、実感したのは。 川口 優勝決定は神宮のヤクルト戦で、胴上げ投手が抑えのツネ(津田恒美)だったな。あの年は外国人選手がいなくて、打線は国産打線と言われてたね。 ──阿南さんの次、89年からの監督は山本浩二さんでしたが、まずは「選手・山本浩二」についてお願いします。 金石 大学(法大)の後輩、タケからどうぞ。 小早川 ここというときに必ず結果を出されていたイメージがあります。 金石 うん、いいところで打ってたよね。 小早川 チームの大黒柱でしたよね。チャンスで打席に立てば必ず点が入るし、勝てるという雰囲気を持っている方でした。 川口 ピッチャーからしたらほんと頼もしいバッターだった。浩二さんにチャンスが回ってくると、得点できる確率は80%ぐらいあったんじゃないかな。 小早川 今のデータ野球を先取りしていた方なのかなとも思います。相手の投球パターンやクセを本当によく研究していましたから。 川口 ピッチャーを観察する目はすごかったよね。俺が入団したときは、カーブを投げるとき、ヒジの角度で一発で分かると言われたよ。 金石 僕は、マウンドでフォークボールを握るときのクセが外野から見ていて分かると注意されたことがあります。「挟むときに腕が回転するようになる。バレバレだからフォークボールを打たれたり見逃されたりするんだ」って。確かに僕は指が短くてボールを簡単に挟めないから、自分では気が付かないんですけど、指を入れるとき、そういう動きをしていたらしいですね。 小早川 浩二さんは試合中、一服する以外はダグアウトから離れなかったですよね。ずっと見ていました。 川口 そうそう。ウエーティングサークルでもキヌ(衣笠)さんは一生懸命バットスイングするんだけど、浩二さんはバットを支えにして、片ヒザを立てて、ずっとピッチャーを見ていた。 小早川 浩二さんと言えば、あのネクストサークルのスタイルですね。カッコよかったです。 ──人間・山本浩二の部分はいかがですか。 金石 浩二さんと、あとキヌさんもそうだけど、若い僕らにとっては近寄りがたい存在でしたね。恐れ多くて前に行けなかった。2人のサインをもらってきてくれって頼まれるときもあったけど、もらいに行くのが嫌だった。それくらい存在感がありました。今、浩二さんといろんな場所で会うけど、あんなに温厚な人だとは思わなかった。当時は会話もできなかったから。 ──小早川さんは多少近い存在だったのでは。 川口 そりゃ、後輩だもんね。 小早川 はい、かわいがっていただきました(笑)。新人のときも・・・
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週刊ベースボール