「異次元の少子化対策」は150年前に実施されていた その結末を見ると…財源不足もあって廃止
今から150年前、先進的な少子化対策を打ち出し、実行に踏み切った政治家が千葉県にいた。当時としてはあまりに〝異次元〟な発想。具体的には、一時的な出産手当や、子どもが3歳になるまでの育児手当を毎月支給するという内容だった。実行したのは県令(現在の県知事)。大都市への人口流出、働き手不足とそれに伴う経済の悪化を憂え、身銭も切った。 子どもはほしいが結婚はしたくない オンラインで精子を注文
最終的には財源がネックになるなどして長くは続かなかったが、中身は現代の少子化対策にも通じる点がある。岸田文雄首相も「異次元の少子化対策」と高らかに宣言したものの、いまだに財源がはっきりしない。明治の千葉で何があったのか。学ぶべき「先例」と言えるかもしれない。(共同通信=吉川純代) ▽「口減らし」と「間引き」を防ぐ 千葉県文書館で企画展を担当し、史料をまとめた学芸員の児玉憲治さんによると、この政治家は初代千葉県令(現・千葉県知事)を務めた柴原和(1832―1905年)。 龍野藩(兵庫県たつの市)の下級武士の家に生まれ、尊王攘夷運動に参加した。明治政府では甲府県大参事(山梨県副知事)、岩鼻県大参事(群馬県副知事)を歴任し、1871年、木更津県のトップに就任した。 木更津県では当時、農村などで「口減らし」のために子どもを堕胎したり、出産直後の母親が赤ん坊を殺したりする〝間引き〟の風習が根付いていた。貧困層だけでなく、比較的裕福な家庭でも産児制限のために横行していたという。
さらに、江戸時代後期ごろからは、商業の発達により農村の人口が都市へ流出。農村の働き手不足が深刻になり、農地は荒廃していた。発展する都市部と比べ、地方では食料もカネも回らない悪循環に陥っていった。 県令の柴原は、間引きが残酷である上、人口減少の一因にもなっていると問題視。こうした悪習の根絶を「県治第一ノ急務」とし、人口を増やすことで地域の経済を発展させようと考えた。 ▽国も認可。ただし財源は県独自 柴原はこうした考えをまとめた「育児仕法」を1872年、まずは明治政府に提案し、資本金2万円の貸与を願い出た。「2万円」の貨幣価値がどの程度かは不明確だが、仮に当時の1円が現在の10万円とすると、20億円相当ということになる。 その内容は、「妊婦検察ノ規程を設ケ」(妊婦を管理する規定をつくる)と「官ヨリ育子資本トシテ金若干ヲ下付シ」(公的なお金を支給する)というものだった。その後の経緯は不明だが、最終的に明治政府は、「貸与」など金銭を伴わない形で育児仕法を認可した。このため、財源は県独自で集めることになった。