「異次元の少子化対策」は150年前に実施されていた その結末を見ると…財源不足もあって廃止
その後の検討の結果、財源は民間からの出資金(約81%)、県の上納金を原資とした政府拝借金(約15%)、県職員からの寄付金(約3%)―が原資となり、自分も120円を寄付。具体的な施策の内容を「妊娠届や出産届などの提出を義務化し、各地の有力者を『育児取締』に任命して取りまとめをさせる」「貧困家庭には出産手当50銭と育児手当『救育金』を月に25銭給付する」―とし、1873年からの5年計画でスタートした。 ▽千葉県全体に広がらず、7年で廃止 ちょうどこの年、木更津県と隣の印旛県が合併し、千葉県が誕生した。引き続き千葉県令となった柴原は、始まったばかりの施策を千葉県全体に浸透させようと奔走を続けた。 ところが、旧印旛県では結局、大半の地域で見送りになった。理由は不明だが、育児資金が思うように集まらなかった可能性がある。 その後、5年計画の終了に伴い1878年に育児仕法は見直され、民間出資金の6割を返金し、残りの4割でほそぼそと継続することになった。2年後の1880年に柴原が県令を退くと、翌年、育児仕法は廃止された。
育児仕法が長続きしなかったのはなぜか。県文書館の児玉さんは残された史料から、まず次の4点に注目した。 ①育児資本金が6割しか集まっていない ②旧印旛県域の大半で育児仕法が実施されなかった ③5年計画終了後に出資金の6割の返還を県に要求している ④育児仕法に対する不満を表した新聞記事がいくつか見られる その上で、理由をこう読み解いた。「育児仕法に対する出資者の熱意は、一部の者を除いて最初から高くはなかった。さまざまな近代化政策にお金がかかるなかで、出資した上中層農民らの間に不満はうずまいていた。育児仕法が実際に始まり、停滞していくにつれてその不満も高まっていき、ついに廃止されたのではないか」 ▽出生数自体は増加 一方で、育児仕法の効果自体はあったようだ。施行後に木更津県の出生数が増加した記録があり、柴原は育児仕法の継続に異を唱える県幹部に対し、「人口増に寄与した」と主張している。