「生きていても仕方ない」と嘆く人は、幸せになる能力に欠けているのか?
自分は「生きるに値しない人間」と思い込み、人生を諦めてしまっている人がいます。生きがいを見つけられず、不幸に苦しむ人は幸せになる能力をもっていないのでしょうか? 苦しみから抜け出し、人生を変えるために必要なことを加藤諦三さんが語ります。 【心が軽くなる言葉】人間関係が良くなる8か条 ※本稿は加藤諦三著『無理をして生きてきた人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
「死にたい」の真意
今の子供の無気力は、吐き出せない憎しみが原因ではないか。 あるお母さんは「なにもしたくない。死にたい」と口癖のようにいう。心の底では夫を嫌いなのだが、本人は気がついていない。気づくのが怖い。だから意識の上では夫を憎めない。それは結構よい生活をしているから。夫への憎しみに気がつけば今のよい生活は失われる。 そこで彼女は、ガス抜きができない。そのお母さんが恩着せがましく子供に言う。 「あなたがいけないのよ、お母さん達はこれだけ、あなたのために努力しているのよ」 実は、こう恩に着せながら無意識の憎しみを子供に向かって吐き出している。「あなたのため」と言われれば、子供は親を恨むこともできない。恨みを晴らすこともできない。こうして自分に噓をついていると、家族が全員悩みを解決できない。 「死にたい」と言う人と、「死にたい」とは言わない人の違い。 「死にたい」と言う人は、解決の能力がない。だから止まってしまう。「死にたい」の真意は、「救ってくれ」ということである。 そこで「どうしたらいい?」と聞いている。「死にたい」のは、目的を見失っているから。自分はどうしたらいいか分からない。「これをしよう」という目的がないから、「死にたい」と言う。 「死にたい」とは言わないけれど、「せっかく命をもらったのだけど、疲れちゃった」と言う人がいる。その真意は「死にたい」である。
とにかくその相手と戦うこと
あなたに「私は生きるに値しない人間」という自己イメージを持たせたのは誰であろうか? 小さい頃のことをよく思いだしてみる。その人のことを今よく考えてみることである。するとその人が「ろくでもない人間」ということに驚くのではないか。 自分は、なぜあのようなずるい人をあそこまで恐れたのか。なぜあんな卑怯な人間に、あそこまで苦しめられたのか? あそこまで弱い人をあそこまで畏敬したことが恐ろしくならないだろうか。人間は、ここまで現実とは関係のない思考をするのかと驚かないだろうか。 とにかくずるくて、弱くて、卑怯な人によって、まさに「私は生きるに値しない人間」と思い込まされたのである。とにかくその人と戦うことである。 戦う意欲はどこから出てくるか? 得体の知れない相手と戦うのではない。戦う相手を明確にすることである。「自分を変える、自分と戦う」ということは、自分の心の中に恐怖のシステムを埋め込んだ人との戦いである。そのように戦いを意義づけられれば、戦う気力が出てくる。 自分と戦うということは、過去に自分の心にいろいろとマイナスの感情を埋め込んだ人と戦うということである。人は、お互いに蓄積されている感情的記憶が違う。