山本昌、涙なき引退会見。「野球が好き。50歳までやれた原動力」
中日の山本昌(50)が30日、名古屋市内で引退会見を行った。今季は3月の教育リーグの初戦で膝を痛めてリタイヤ。8月のヤクルト戦で今季初登板をしたが、今度はわずか22球で左手を突き指して途中降板。ピッチング練習を再開できないまま、現役生活の引退を決めた。ジェイミー・モイヤー(当時ロッキーズ)が、2012年に記録した49歳と180日を抜く世界最年長勝利記録の達成はならなかったが、最多勝3度、最優秀防御率、最多奪三振賞、沢村賞など、数々の記録を更新してきた。偉大なる歴史を刻んだ日本のレジェンドサウスポーが、32年間の野球人生に終止符を打った。 山本昌は「僕は世界で一番幸せな野球人生を終えた男。悔いはあるけれど後悔はない。悔いは、スリーボールで途中降板した最終登板」と、涙のないさわやかな笑顔で語った。山本昌は、10月1、2日に広島で行われる広島戦で、本当のラストマウンドに立つ。ここまでの生涯成績は、579試合に登板、219勝165敗、防御率3.45。 以下、会見での主な一問一答 ――今の心境は? 「実感はない。大きな決断はしたなとは思っています。ある程度、すっきりしています。やり残したと思っていることも、やりきったという思いもあるが、この場にいて、本当に引退するんだなと」 ――引退決断への経緯は? 「9月上旬に落合GMと短時間、話をした。『自分で考えろ』という話をいただき、1か月近く考えた。葛藤はあった。中日の3年連続のBクラスははじめて。最後の名古屋ドームの試合にいかせてもらったときに、チームは、大きく変わらないとだめだなという思いもあった。邪魔になっちゃいけないなと思った。やり残したのは、なんとかしがみついても勝ちたかったということ。1年、チャンスをもらって、この結果だったので、自分でけりをつけて、チームにも立ち直ってもらい、優勝争いをするチームになってもらいたいと決断した。妻とも、ずっと2人で色々考えてきたこと。いい判断だったと思っています」 ――世界記録が目前だった。 「戦力としてやりたい、戦力としてプロでいたいというのが僕の考えだが、今年、1年チャンスをいただいて、この成績で終わった。たまたま記録が、目の前にあるので惜しいと言われるが、その記録がなければ、今辞めるのは当然のこと。そういう意味で決断できた。これでよかったと。会見中の今も思っている」。 ーー今、野球人生を振り返ってみて? 「18歳のときに、大きな夢をいただいて、中日に入団させてもらった。出だしからつまづき、力が足りずに苦悩の日々を過ごしていた。1988年にドジャースへ留学、そこでアイク生原さんに指導をいただき、まさかここまで花が咲くとは思ってもいなかった。あそこが原点だった。アイクさんとの出会いがなければと思う。筋書きを作れと言われても難しいような野球人生。世界で一番幸せな野球選手だった」 ーー一番の思い出は? 「32年は、長いので一杯あるが、一番、自分で『よしやった!』というのは、2006年9月のノーヒットノーランをやった試合の次の登板の阪神戦。優勝争いの中、チームが追いつかれたときに、阪神を突き放すピッチングができた。生涯のベストピッチ。うれしかったのは、優勝のシーン。88年の優勝も2006年の優勝もあるが、日本一になったときにベンチ入りができていない。それが悔しかった。一番悔しいのは、今年8月9日のヤクルト戦での降板。あの場面で、ああなってしまう(突き指)のは、不徳のいたすところ。何かが足りない、努力が足りなかった」