「原点は母が持ち帰った2切れのマグロ」すしざんまい社長が語る “マグロ大王”への転機
早くに父を亡くし、母を助けて働く
木村さんは、1952年、千葉県野田市に農家の末っ子として生まれた。上には2人の姉がいる。4歳になる前に父は事故で死亡し、その葬儀のときふと空を見上げると、赤い戦闘機、F―86セイバーが飛んでいた。 「それがカッコよくて。あの飛行機のパイロットにいつかなりたいと思いました」 父の亡き後、多額の借金が判明し、母は3人の子どもを育てながら、借金の返済に追われた。昼は農作業、夜は内職。寝る間も惜しんで働いてもカツカツの生活だった。 清少年は、母を助けたいと、ウサギや鶏を育て、増えたウサギや卵を売った。小学生になると、新聞配達、農作業の手伝い、ゴルフ場でのキャディなどもして家計を助けた。このころが後の商人・木村清の原型となっている。 ある日、母が知人の法要に出席。そこで出された折りの中にあった、ほんの2切れのマグロの切り身を、大事に持ち帰ってきたのだ。 「半分に切って分ければ家族4人で食べられる。みんなで食べたほうがおいしい」 その母の言葉と、分け合って食べた半切れのマグロのおいしさは、木村さんの心に生涯、残るものとなった。 中学校の成績は優秀だったが、木村家に清少年を高校に通わせるだけのお金はなく、給料をもらいながら学べる航空自衛隊第4術科学学校生徒隊に入隊した。 「ここなら憧れのパイロットにもなれると、張り切って行きましたよ」 15歳で、埼玉県熊谷市で自衛隊の寄宿舎生活。6時起床、腕立て伏せやランニング、柔道、剣道など、過酷な訓練を受けながら、通信制で高校の勉強をした。ところが、自分たちは通信兵として入隊したことがわかる。 パイロットになるには、大学に入る必要があると知り、大検を受けるためにさらに猛勉強。大検に合格し、難関を突破して空曹候補生の資格を得るも、入隊4年目、3等空曹として任官時に、頭に負った大ケガで目のピント調節力が少し低下。 これにより、戦闘機パイロットにはなれないことが決定。自衛隊を退官した。わずか20歳で子どものころからの夢を諦めることになる。 次に目指したのは、司法試験合格だ。せっかく大検に合格したのだからと中央大学の通信課程を受講する中で、最難関の資格に挑戦することに決めた。勉強するためには、時間もお金も要る。自衛隊を辞め、手元には給料など68万円のお金があった。そのお金のほぼ全額を株に投入し、2か月後には250万円を超えていた。 「そのお金を元手にモーテル経営をしないかと声をかけられ、足りない分をおふくろに借りに行ったんです。そしたら“金は貸すが、二度と来るな”と言われてね」 厳しい母の言葉で目が覚め、何のために働くかを考えるようになった。その後、紆余曲折を経て、出会ったのが水産関係の新洋商事。ここで仕入れやビジネスの基本を学び、「すしざんまい」オープンへとつながっていく。 21歳で入ったこの水産会社では、できたばかりの冷凍食品の担当に配属された。食品を扱う中では、廃棄される食材が出る。 「小さな切り身とか、足が8本そろってないタコとか、みんな捨てられていた。もったいないでしょう」 スライスして寿司ネタにし、安く寿司屋に売り込んだら、大当たり。モンゴウイカの耳はすり身にしてちくわの材料に、余ったスケトウダラは白身魚のフライにして弁当屋に卸す。冷凍食品を使った病院食や居酒屋メニューも開発。次々アイデアがひらめき、行動に移していった。 深夜1時前に起き、トラックに冷凍食品や魚を積んで走り回り、朝8時の始業に間に合わせ、終業後も夜10時過ぎまで働いていた。すっかり商売の面白さにとりつかれ、睡眠不足もオーバーワークも苦にならなかった。 さすがに勉強する時間はほとんどなくなり、法曹界に入ることは断念したが、大学は7年かけて卒業。新洋商事は退職した。 「“水産会社の範囲を超えては困る”と言われちゃってね。この会社に3年くらいいたかなぁ。ビジネスの基本を学び、いろいろな挑戦もさせてもらい、勉強になったね」