<マジックの裏側・木内野球を語り継ぐ>1987年夏準優勝・島田直也監督/中 言葉巧みに選手刺激 /茨城
◇「歴史作ろう」「8強で国体」 1987年夏。常総学院は春に続いて甲子園出場を果たしたが、木内監督の目標は当初高くなかったようだ。 福井商との初戦を控え、選手には「一つ勝って常総学院の新しい歴史を作ろう」と呼びかけた。勝利後のインタビューでも「取手二で優勝したときとは違う喜び。彼らに1勝させることが夢だった」と、どこか満足げだ。 ◇ 2、3回戦は過酷な日程になった。 当時の大会は全試合抽選方式がとられ、1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝の最終日にその都度次の組み合わせを抽選していた。 常総学院は、2回戦の最終となる8月16日の第3試合で沖縄水産と対戦。島田が3安打完封して勝利したが、抽選の結果、3回戦・尽誠学園(香川)戦は翌17日の第1試合となったのだ。休養日などない時代だ。 しかし、木内監督は「いいとこ引いたな。3回戦に勝てば、準々決勝まで1日休める。3回戦が18日だったら、決勝まで4連投になるだろ」。初勝利で満足したはずの指揮官は、いつの間にか頂点を見据えていた。 主戦の島田も「(上位進出への)色気が出ていた」という。投げるのが大好きで、他の投手が先発して失点しようものなら「自分が投げればこんなことにはならないのに」とそわそわする性格。連投に臆するところはなかった。木内監督はそんなエースの心情を刺激した。 木内監督は試合前、選手らにもう一つニンジンをぶら下げた。「8強入りすれば国体に出られる。会場は沖縄だ。仲間と秋まで野球ができるぞ」。ナインは沸いた。 いざ試合が始まると、序盤の島田は疲れからキレ、制球とも今ひとつ。しかし四回、自らのバットで先制して波に乗る。 1死二、三塁の場面で打席に立つと、後に米大リーグでもプレーする尽誠学園・伊良部の豪速球をカットして粘り、狙っていたカーブをたたいた。打球は左翼フェンスに達する2点適時二塁打に。「また目立っちゃうなあ」。春に緊張で震え上がった甲子園は、スポットライトを浴びる最高の舞台に変わった。 ◇ 「洗脳じゃないけれど、試合ごとにうまいことを言われて……。ずっと木内監督に乗せられていました」と笑う島田。準々決勝・中京(愛知)戦も逆転で突破し、準決勝でまたもミラクルを引き起こす。(敬称略) ……………………………………………………………………………………………………… <第69回全国高校野球> ▽2回戦 常総学院 400201000=7 000000000=0 沖縄水産 ▽3回戦 尽誠学園 000000000=0 00031011×=6 常総学院