ダンプ松本「ドラマを見て感動して涙も流したんだけど……これって本当に私が主役なのかな?」
おとなのおもちゃ屋で凶器のムチを購入
そんなダンプの“悪の象徴”は、竹刀だった。 「最初はチェーンを使っていたんだけど、途中でムチがいいかなって思ったの。それで、新宿の“おとなのおもちゃ屋にある”と聞いて行ったら、すぐに店員が“ダンプさんですよね?”と気づいてくれて。 で、出てきたのが、先っちょにち●ち●の形をしたモノがついている“夜専用”でさ(笑)。“こんなのリングに持って言ったらヘンタイだって笑われちゃうよ!”って言ったら、4~5万円もする本格的なムチを取り寄せてくれた。確かにいい凶器だったんだけど、一度、ロープにぶつかって私の顔面にバシッと当たったら、これが痛いのなんの! それでイヤになって、竹刀を使うようになったわけ。 あれもさ、根本部分の竹を広げて、テニスボールを入れておくと、組んだ竹が適度に膨らんで、いい音が出るんだよね。そうやって、1か月ぐらいかけて仕込むと、痛くて怖い、最高の凶器に仕上がるわけ」 当時は、まだ興行と裏社会の距離が近い時代だった。日本中を巡業していた全女でも、試合後にその土地を仕切るヤクザとの宴席が設けられた。そんな接待の場でも、極悪は人気を博した。 「特に北海道はさ、なぜか極悪の人気が高かった。宴席だけでなく、ある親分からは、宝石が入った24Kの金のネックレスをもらったよ。私はすぐに親分たちとも仲良くなっちゃうから、別に怖いこともなかったね。 クラッシュは必ずマネージャーも一緒に行っていたらしいんだけど、私たちには“ダンプだったらヤクザ相手でも大丈夫だろ”って誰もついてこない(苦笑)。 たださ、どこでも肉を食わしたら喜ぶ、と思われているから、連日連夜、焼肉食べ放題なのには参ったね。1~2日はありがたいけど、3日目には“肉なんか食えるわけねーだろ!”。今、考えたら贅沢な話だけど」
「いまだに実感が湧かない」
クラッシュと極悪の抗争劇は85年8月28日、大阪城ホールで開催された、ダンプと長与の敗者髪切りデスマッチでピークを迎える。 ドラマ『極悪女王』でもクライマックスとなっているこの試合に勝利し、ダンプは人気絶頂の長与を丸坊主にする。その残酷さにテレビ局には抗議が殺到し、関西地区ではゴールデンタイムの中継番組が打ち切られる事態となった。もはやダンプ松本は「社会現象」になっていた。 あれから約40年。まさか自分の青春が、映像作品となり、世界中で話題になるとは―? 「いまだに実感が湧かないんだよね。私も全部、ドラマを見たし、感動して涙も流したんだけど……。これって本当に私が主役なのかな? よくよく見たら長与千種のほうが目立ってない? なんて思ったりして。 ベビーの引き立て役だったヒールの私にスポットライトを当ててくれたのは、本当に嬉しいんだよ。だから“ダンプが主役だったよ”って感想をいろんな人から聞きたいよ、マジで」 40年たっても、いまだライバルに抱くジェラシー。このダンプ松本の執念にこそ、観客の心を揺さぶった、昭和女子プロレスの真髄が隠されているのだろう。 ダンプ松本(だんぷ・まつもと) 本名・松本香。1960年11月11日、埼玉県出身。ビューティ・ペアのジャッキー佐藤に憧れ、全日本女子プロレスに入門。80年、デビュー。84年、リングネームをダンプ松本に変更し、『極悪同盟』を結成すると、クラッシュ・ギャルズのライバルとして一世を風靡する。88年、引退。2003年以降、プロレスラーとして本格的に復帰し、女子プロレス再興に尽力している。 THE CHANGE編集部
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