傑作『デカローグ』を完全舞台化―2024年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続く!
ポーランド映画の名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督(1941-1996)の最高傑作の呼び声高い「デカローグ」(1989)を、このたび35年という歳月をへだてて日本の精鋭演劇人が集ってその舞台化に挑戦、4月13日から東京・新国立劇場で上演されている。一口に舞台化と言っても、映画ファンならすでにご存じのように、これは並大抵の試みではない。なにしろ「デカローグ」という作品は10話の物語が連作の形を取って、合計上映時間10時間近いオバケ作品なのである。それをまったくコンパクト化したり、エピソードを減らしたりせず、舞台用にフィットするようにアレンジを加えながらも、全10話をコンプリートさせようという途方もない演劇プロジェクトとなった。現在、新国立劇場で上演されているのは、デカローグ1『ある運命に関する物語』/デカローグ3『あるクリスマス・イヴに関する物語』/デカローグ2『ある選択に関する物語』/デカローグ4『ある父と娘に関する物語』の4話分である。残りの6話分も含め、同劇場では7月15日まで上演が続いていく。 そう聞くと、なにやら観客は長時間にわたって座席に縛り付けられ、とてつもない苦行を強いられるように想像してしまうが、意外なことに、むしろ通常以上に快適な演劇体験が待っている。1話あたりの上演時間は映像と同じように1時間前後の中編であり、1話分を終えると20分間の休憩が入る。その20分間で、いま見終えたばかりの物語の投げかけてきたものの意味や、もたらした感情の機微を、落ち着いて噛みしめ、吟味し、次のエピソードに臨むための準備もできる。筆者は今回の4話分を1日で完走したのだが、本当に充実した時間で、苦行とは無縁の演劇体験だった。 では、小川絵梨子と上村聡史の両演出家によって実現される今回の「デカローグ」舞台化の意義とはいかなるものだろうか。意義を考える前にまず前提となるのは、20世紀ポーランド演劇というものがヨーロッパ有数の前衛性で名高く、日本でも古くから多くの演劇人がその紹介に努めてきたという歴史的な背景である。ヴィトキェヴィチ、ゴンブローヴィチといった劇作家の戯曲が日本演劇人によって積極的に上演された上に、カントール、グロトフスキといった演出家の仕事や前衛的理論が多大なる影響力をもって受容されてきたのである。