傑作『デカローグ』を完全舞台化―2024年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続く!
そして今回、まずは4話分を客席から見ながら改めて思い起こされたのが、キェシロフスキ映画というのはずいぶんと演劇との親和性が高いのだな、ということだった。キェシロフスキ作品は、これ見よがしのスケール感を誇ったりしないし、大文字の歴史で風呂敷を広げたりもしない。むしろ、等身大の人間たちのうごめきをじっと注視する。どこにでもいる、そして欠点だらけの人間という存在の喜怒哀楽、心配、愛憎、エゴイズム、執着、追憶、心的外傷、そしてなにかを示す徴候に寄り添っていく。「デカローグ(Dekalog)」とは、ポーランド語で旧約聖書における「モーセの十戒」のことである。神の御心に沿って人間に課せられた10の掟であるわけだが、この「デカローグ」全10話に登場する人々はいずれも十戒を立派に遵守できるような存在ではない。弱さゆえに、あるいは傲慢さ、不実さのために間違いを犯してしまう存在ばかりである。戦争、環境破壊、社会不安、経済システム不全、そして文明崩壊の危機が叫ばれる今日だからこそ、弱き人々の、過ちを犯してしまう人々の等身大の姿を見つめ、その存在に寄り添うような物語を語ろう、という企画者たちの遠大な意図が感じられる。 「デカローグ」の描く時代は、統一労働者党による一党独裁の末期となる1980年代、ポーランドの首都ワルシャワ。舞台は大型集合住宅である。このような画一的な大型の集合住宅建築はワルシャワの中心部から離れた郊外の国有地に多数造成された。舞台があっちこっちに移動したりせずに、集合住宅に暮らす人々の等身大の姿に目を凝らす。この点も「デカローグ」が舞台化に適している所以である。1箇所を舞台に複数の主人公たちの物語を並列的に語っていく話法を〈グランドホテル形式〉と呼ぶ。その名前の由来は、1932年にエドマンド・グールディングが監督したアメリカ映画「グランド・ホテル」(グレタ・ガルボ&ジョン・バリモア主演)だった。「デカローグ」はまさに〈グランドホテル形式〉のドラマである。 デカローグ1『ある運命に関する物語』ではクシシュトフ(ノゾエ征爾)と幼いパヴェウ(石井舜)の父子、クシシュトフの姉イレナ(高橋惠子)が厳しい運命に晒され、デカローグ3『あるクリスマス・イヴに関する物語』ではヤヌシュ(千葉哲也)とエヴァ(小島聖)が不倫愛を再燃させる。デカローグ2『ある選択に関する物語』では医長(益岡徹)の前に現れた人妻のドロタ(前田亜季)は闘病中の夫アンジェイ(坂本慶介)を尻目に、別の男性との間の子を妊娠している。デカローグ4『ある父と娘に関する物語』ではミハウ(近藤芳正)の残した「死後開封のこと」という手紙を一人娘のアンカ(夏子)が見つけてしまったことにより、隠蔽されてきた危険な真実がいっきに吹き出してしまう。