傑作『デカローグ』を完全舞台化―2024年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続く!
デカローグ1の主人公クシシュトフは、決定的な運命の結果がいままさに出ようとしている重大な局面で、フットワークの悪さを露呈する。サイレンが鳴りわたり、集合住宅の住人たちが慌てふためき、ヘリコプターのプロペラ音が頭上を通過しているというのに、クシシュトフは息子パヴェウの英語塾の先生に連絡を取ってみたり、近所の女の子に事情を尋ねたり、集合住宅の階段やエレベーターで昇降したり、トランシーバーで通信を試みたりと、大学教授としてのふだんの切れ者ぶりが肝心なときに影を潜めて、運命的な出来事が起きている現場になかなか辿りつかない。私たち観客はクシシュトフのフットワークの悪さに苛立ちを隠せないが、そのフットワークは私たちの自画像にほかならない。徴候はたしかにあった。しかしこれほど残酷なしっぺ返しを食らうほど、彼は罪びとなのか? その答えはどこからも返ってこない。この判定不在こそが十戒=デカローグの真の掟である。 ひとりとして完璧な人間なんておらず、誰もが欠点や罪を抱え、傷を負い、苦悩を内に宿しつつもなんとか生活している。その等身大の姿が、集合住宅の内部を覗き込むようにして開陳されていく。2でメインキャラクターだった医長は4では脇役にまわり、1で主人公だったクシシュトフは3では一歩行者として界隈にまぎれていく。登場人物のさりげない進退が〈グランドホテル形式〉の豊かなゲーム性を醸しつつも、例外的に1名だけ各話に登場する男がいる。亀田佳明が演じるこの男は、ときに湖畔で焚き火する男だったり、ときに病院の当直医だったり、必ず各話で容姿を変えながら登場し、一言もセリフを喋らずに、主人公たちの運命に干渉しないまま観察している。天使にも見えるし、作者の分身のようにも見える。
しかしながら、今回の4話分の上演を見終えたいま、筆者にはこの「デカローグ」舞台上演版の真の主人公は、集合住宅そのものだという気がしている。キェシロフスキの映画版(本国ではポーランド公共放送「PTV」のテレビドラマとして発表された)では的確なモンタージュとロケーションによってリアリズム描写が徹底され、集合住宅の大型アパートメントは、社会主義末期の庶民の暮らしを〈グランドホテル形式〉で象徴的に提示するロケーションでしかなかった。ところが今回の新国立劇場のステージでは、アパートメントの構造がコーナーキューブ状に組まれて、空間そのものが骨組み化され、抽象性と可塑性が強調されている。キューブの中身はスプレッドシートのセルを書き換えるかのごとく、エピソードごとに自在に装飾替えがほどこされ、かえってその自在さが、現代生活の可逆性、没個性性、不安定性を炙り出している。ヨーロッパの演劇シーンでも高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるセット構造そのものが、本作の真の主人公ではないか。演者たちはこのコーナーキューブ状の美術セットを上下左右に動き回るが、動き回れば回るほど、人間存在の卑小さを痛感させるしくみになっている。事の本質を醒めた眼で透過した、じつにおそるべき美術セットである。 一映画評論家としてのちょっとした推理であるが、針生康によるこのコーナーキューブ状の美術セットは、川島雄三監督の映画「しとやかな獣」(1962)における上下左右に積み木されたような団地セットにインスパイアーされたものではないか。高度経済成長期の東京・晴海団地をモデルに、大映の名美術監督・柴田篤二によって造形されたあのみごとなキューブ状の美術セットが、2024年の演劇プロジェクトで時ならぬ復活ぶりを見せたのかもしれない。そんなことを勝手気ままに考えながら帰途に着くと、なにやら1962年~1989年~2024年という時間が遥かなる飛翔を披露してくれたように思われ、心がふわっと軽くなった。 この〈グランドホテル形式〉の連作を全10話にわたり完走したとき、私たち鑑賞者の前にはいかなる光景が広がっているのだろうか。今年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続いていく。 文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社
「デカローグ」 デカローグ1~4[プログラムA、B交互上演]=2024年4月13日[土]~5月6日[月・休] デカローグ5・6[プログラムC]=2024年5月18日[土]~6月2日[日] デカローグ7~10[プログラムD、E交互上演]=2024年6月22日[土]~7月15日[月・祝] 会場:[東京]新国立劇場 小劇場
キネマ旬報社