「最悪中の最悪」の結果に終わったパリ五輪、引退も覚悟した走り幅跳び橋岡選手が再起を期す理由
「SNS(交流サイト)もスマートフォンから一時的に消した。LINE(ライン)の通知もオフにして、2週間くらいは、ほぼ誰とも連絡を取らなかった。誰かに気持ちをはき出させてもらうより、自分と向き合って解決策を見つけ出さないといけないと思った」 五輪後は拠点の米国へ。練習もできないような状況だったのか。 「練習だけはしていたが、なぜ練習しないといけないのか、と思っていた。家にこもっているよりは良かったのかもしれない。本当に二重人格になるぐらい、完全に病んでしまっている自分と、それを律しようとする自分がいた」 「ただ、ここで陸上をやめても悔いが残るだけ。逃げるのだけは嫌だった。どんな形であれ、自分が納得できる終わり方にしないといけない。徐々にそう思えるようになって、今はもう『陸上を制してやる』ぐらいの気持ちでいる」 来季に向けた冬季練習は再び米国で積む。拠点を移し、助走の大幅な進化に挑戦してから2年。これまでも「日本に戻る選択肢はない」と言ってきたが、パリ五輪後も葛藤はなかったのか。
「最初に米国に行く前から、3年はやらないといけないと思っていた。2年で迎えるパリ五輪までに何とかまとめきりたかったが、新しい技術の定着にはやっぱり3年はかかるんだなと。まずはあと1年、米国での挑戦をやり切ることが自分にとってはベスト」 「パリを終えて、どこかに甘えがあったんじゃないかと強く感じた。調子や状態が良くなくても、決勝には何とか行けるだろうという甘い考えがあった。もう本当に自分に厳しく、甘さを捨てて追い込むしかない」 「日本でのコーチ、森長(正樹)先生からも『まずはあと1年、米国でちゃんとやった方がいい』と背中を押してもらった。両親も含め、いろんな方に応援してもらい、支えてもらっている。自分で逃げ出すのは簡単だけど、それでは無責任。レイダー・コーチにもまだ何も返せていない。しっかり結果として、恩返ししないといけない。そこは日本男児として、譲れないところ」 来年9月には、自身がアスリート・アンバサダーに就任した世界選手権東京大会、4年後にはロサンゼルス五輪がある。