「光る君へ」屈指の名シーンは「見上愛」演じる彰子の告白 道長の結婚戦略で気になる「世界の近親婚」事情
■「血の純潔性」を保つための近親婚 おじ(またはおば)と姪(または甥)による“叔姪(しゅくてつ)婚”は、奈良時代や平安時代では権力を保持するための一つの戦略として普通に見られた慣習だ。日本神話においては叔母と甥の関係であるタマヨリビメとウガヤフキアエズが結婚したことによって誕生した息子が初代天皇となった神武天皇であるという伝説もある。 古代の世界でも近親婚は特に支配階級で広く行われていたとされ、古代エジプトのファラオは王家の血筋を保つために兄弟姉妹婚が行われていたほか、古代ペルシャのアケメネス朝では、「血の純潔性」を保つため、同母兄弟姉妹間の婚姻が法律で認められていたという。スペインを174年間にわたり支配したハプスブルク家は血筋を維持するために、世代が下るごとに近親婚が増え、11の結婚のうち9組が「3親等以内の親族」だったとも言われる。 現在の日本では、叔姪婚のような3親等以内の結婚は禁止されているが、世界的には、近親婚に対する規制は国や地域によって異なる。例えば、アメリカでは州によっていとこ婚が認められている州もあれば禁止されている州もある。ヨーロッパでは、カトリック教会の影響が強かった中世以降、近親婚は禁止されるようになったが、ドイツでは今でも3親等の結婚は認められている。また、韓国では8親等以内の親族との結婚が禁じられているのだが、結婚後に配偶者が6親等であることがわかり、結婚が無効になったケースもある。そのため、「範囲が広すぎて個人の自由を侵害している」「顔も知らない8親等は区別も難しい」と法の改正を求める声が高まっているようだ。 道長の“結婚戦略”は現代の価値観からは想像しがたい慣習ではあるが、歴史を理解する上でその背景を知ることは重要だろう。 威子が待望の第1子を産んだのは28歳だが、生まれてきたのは女子だった。「光る君へ」では皇子出産のプレッシャーに苦しんだ彼女の姿は描かれずに終了するのだろうが、こうした“行間”に思いを馳せることも、「平安大河」の醍醐味(だいごみ)のひとつだったように思う。 (泉康一)
泉康一