「ソフト老害」「老害」という言葉を安易に使う人は成長の機会を放棄している
怒るくらいなら新たな道を
しかし、そうやって人を悪く言っているうちに、実は大きな機会を失っているように思います。なにか高齢者が事件を起こしたりするたびに、ネットニュースのコメント欄にある「老害!」という罵りを見て溜飲を下げても、何も変わりません。 上司の無理解を嘆きながら愚痴を言い合っても、やはり変わりません。そうやって、気づかぬうちに自分が狭いところに追い込まれていく。そして、キャリアの選択肢もなくなってしまう。 「老害」と他人のせいにしているうちに、それはブーメランのように自分に返ってくるのではないでしょうか。 そもそも自分と異なる集団をいくら罵っても、たいした収穫はないと思います。上の人間が「いまの若手は」といくら嘆いても、変化は起きない。同様に、「老害」と嘆く人も、立場が逆なだけで単に停滞しているだけのように感じます。 ただし、自分が若いのであればいろいろな選択肢があります。先に若手芸人の嘆きを書きましたが、あれはまだインターネットが発展途上であり、テレビ番組の出番がすべての時代でした。 その後インターネットで自分の動画を公開することが可能になりました。そこでいち早く先駆けとなった人々は、いまや「小学生のなりたい職業」で上位に挙げられるほどメジャーになっています。 怒りやいら立ちを自分のエネルギーに変えていく人はいます。一方でその場で不満をため込むだけの人も多いと思います。そして、毒の強い言葉は、人を必要以上にいら立たせます。「老害」というのは、毒の強い言葉の典型だと思うのです。 理不尽さをことさらに突き付けられれば、だんだんと意欲は低下していきます。だったら、二言目には「老害」というような集団やメディアからは距離を置いたほうがいいのではないでしょうか。
最大の問題は非公式な権力構造
いまの社会では、たしかに「老害」といわれても仕方のないような現象もある。しかし、その言葉を発していると、段々と自分に毒が回ってくるのではないか。それよりは、他人のせいにしないで道を拓くことを考えた方がいい。 これは、理想論かもしれません。そこで、私が考える「本当に困った老害」についてあらためて書いておこうと思います。 それは、「非公式な権力構造」がいつまでも温存されている状況だと思うのです。 上にいる人が相当の高齢だとしても、認められた手続きで選ばれたならば、それを害とはいわないでしょう。米国の大統領も史上最高齢ですが、それを承知の上で「勝てる候補」として選ばれ、実際に勝利したわけです。 いっぽうで、公の権力がないにもかかわらず、組織の意思決定に関与しようという人がいます。 日本の企業ですと、元の経営者で取締役すら引退した人が、実質的な権力者として居座ることがあります。また、役員経験者のOBがいつまでも経営に口を出し、時には徒党を組んで意見を突き付け、経営者がその対応に四苦八苦するようなケースも未だに多いのです。 政治の世界でも似たようなケースはありますが、まだ報道などでいろいろなことが見えていきます。しかし企業に関してはよほどのお家騒動にでもならなければ、あまり報道されることもありません。 この非公式な権力構造は、日本企業が停滞してきた大きな原因の一つだと思います。これこそ「老害」として糾弾されるべきことでしょう。 *** 山本氏が「糾弾されるべき」としている「老害」は、政界あたりで探せば「あの人」「この人」とすぐに頭に浮かぶだろう。 ただ、実のところ、「老害」もあれば「若害」のようなものだってある。 己の不満や不遇を安易に他人のせいにするのはあまり得策ではないのかもしれない。
デイリー新潮編集部
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