<独占インタビュー3>羽根田のカヌー人生の転機はスロバキアにあった
カヌーの銅メダリスト、羽根田卓也(29、ミキハウス)の独占インタビューの第3回は《カヌーの原点、そして、スロバキアへ》がテーマ。スロバキアへ拠点を移す過程について聞く。 ――子供の頃の話ですが、カヌーをされていたお父さんとお兄さんの影響で、小学3年の頃に地元、愛知の矢作川で始めたんですね。 「子供の頃は、川の流れを読みきれずに溺れたこともあります。それでも、兄や父が『早く行け!』と。しょっちゅうはんべそをかいて辞めたいと思っていました。目の前の巨大な流れへの恐怖心がありました。例えれば、目の前にライオンがいるような恐怖心です。 でも、そのうちに、ここは危ない、と見て流れがわかるようになるので、そこは避けて通るわけです。でも、今では練習は人工コースなので自然の川に行くことは、ほとんどと言っていいほどないですけどね」 ――カナディアンシングルは、パドルのかいが一方向にしかついていないもので、片方ずつ漕ぐ特殊なスタイルです。僕も遊びでカヌーに乗ったことがありますが、両端にかいが付いて回して漕ぐカヤックタイプでした。カナディアンは、一般的ではないですよね? 「中1でカナディアンを始めました。兄はカヤックです。父が言うには、『兄弟で同じカテゴリーで争わせたくない。僕がカヤックをやれば、後々、兄の上をいくのがわかった。兄に可哀想な思いをさせたくないから、カナディアンに転向させた』と」 ――自分ではどうでした? 「技術的にカナディアンは難しいんです。愛知に、兄弟で大好きな先輩がいたんですが、その人がカナディアンで、いつも見ていました。兄貴も『おまえはカナディアンをやれ!』という感じで、スンナリと始めました。それからカヤックはほとんどやりません」 ――子供の頃から将来の目標は五輪のメダルと考えていましたか。 「世界一になりたい、という漠然としたものでした。五輪というものがわかってきたのはシドニー五輪くらいからですが、テレビもカヌー競技はやっていなくて、メダリストの名前を言えるわけでもなく、憧れの存在の選手がいるわけでもなく、まったく遠い世界でした。小さい子供が、将来、総理大臣になりたい、と言っているのと同じレベルでしたね」 ――いつから目標が具体的になっていきますか? 「中学入学後、ジュニアの代表になり、欧州遠征に行くようになってスラロームの世界のトップレベルをそばで見始めたときに五輪が目標になりました。そのときは、まだトップとは何十秒ものタイム差があって、自分と世界がどれだけ開いているのかもわからない、あと何年かかって、その差を縮められるかもわからなかったんです。でも高校1年になったときに、その差はわからないけれど、『練習をやりすぎて悪いことはひとつもないな。手をぬく余裕も理由もないな』、と考えるようになりました」 ――そこから人生の大きな決断。スロバキアへの10年に渡る武者修行となるんですよね? 「高校3年の最後の夏の大会でスロベニアで国際大会があったのですが、悔しい思いをしました。五輪も含めスラロームの国際大会は、人工コースで行われますが、日本にその環境はありません。このままでは差は縮まらない、日本を出なきゃいけない、という気持ちが強くなりました。そこで父に手紙を書いたのです。最初はチェコで練習できないか、と調べていたんですが、父からスロバキアがいいんじゃないか、という話がありました。僕の種目に強い選手、尊敬している伝説的な選手もいて彼と同じ環境でやりたいと考えました。スロバキアのカヌー連盟を通して、こちらからコーチの名前を指定して『この人に師事したい』と。まあ、その人しか知らなかったんですが(笑)。それが世界選手権で5つの金メダルを持っているユーライ・オントコというコーチでした」