「圧倒的な力」と騒ぐ尹政権はニュルンベルク裁判を記憶せよ【寄稿】
イ・ビョンホ|南北教育研究所長・教育学博士
7月16日から10日間、筆者はハンギョレ統一文化財団が主管した「自由と平和の象徴、ドイツ歴史紀行」に参加した。分断の痛みと平和統一の喜びを実感できるベルリン探訪の時間が短いのがやや残念だったが、非常に意味のある旅だった。 特に、第2次世界大戦の終戦直前に米国、ソ連、英国が集い、ドイツと日本の敗戦後の朝鮮半島などをどのように管理するかについて議論したポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿▽ソウルの1.5倍にのぼる面積を誇るが、東西に分断され、1961年から1989年までぶ厚く高いセメントの壁が建っていた、 統一と自由のブランデンブルク門の建つベルリン市内▽1981年から毎週月曜日午後5時に「抑圧されるものすべて」をテーマに行われた自由討論会の経験をもとに、1989年9月4日に1200人が集って東ドイツ政権に国境の開放と人権保障を求めた旧東ドイツ・ライプツィヒの聖ニコラス教会▽最初は細い小川を中心に分離されたが、次第に二重の壁と軍の警戒所が建てられ、「第2のベルリン」と呼ばれた小さな村、メドラロイトなどは忘れられない大切な思い出だ。 しかし上記の場所よりも筆者に強い印象を残したのは、1945年11月20日から1946年10月1日までの10カ月間にわたり、ナチスの24人の最高戦犯に対する裁判が行われたニュルンベルクの裁判所を訪ねたことだ。特に絞首刑にされたり服毒自殺したりした11人の遺体を撮影した写真の中の彼らは、裁判を受けている時の堂々とした様子とは非常に対照的で、筆者に強い印象を残した。ヒトラーの参謀や部下として忠誠を尽くした軍の将官たちは、勲章がすべてはずされ、銃殺ではなく絞首刑に処された。絞首刑が執行される過程で頭が足下の木にぶつかって血が流れ、それが固まっているという凄惨な遺体もあった。 ドイツでの日程の慌ただしさのせいで韓国のニュースに接しにくい中にあっても、筆者の関心を引くニュースがあった。一つは、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権が非武装地帯(DMZ)の軍事境界線に接する地域の全域で北朝鮮に向けた拡声器放送を開始したこと。もう一つは複数の市民社会団体の激しい反政府デモや集会で、特に「このままでは戦争が起きる、尹錫悦弾劾」というプラカードのスローガンが注目された。朝鮮戦争停戦71周年を迎えた7月27日には、世界最大規模の米軍基地である京畿道平沢(ピョンテク)のキャンプ・ハンフリーズで、複数の市民団体と多くの民主市民が「反米反帝自主」のスローガンを叫んだ。幸い、政府や米軍とはこれといった摩擦もなく、参加した市民たちのおかげで集会やデモは無事に終わったようだった。 ニュルンベルク戦犯裁判の公式名称は「ニュルンベルク国際軍事裁判」。この裁判に先立ち、アドルフ・ヒトラー、ハインリヒ・ヒムラー、ヴィルヘルム・ブルクドルフ、ハンス・クレープス、ヨーゼフ・ゲッベルス、ヨーゼフ・テルボーフェンは逮捕直前、または逮捕直後に自殺してしまったため起訴されなかった。第2次世界大戦のもう一つの戦犯国である日本の戦犯に対する裁判は、東京で行われた。28人が起訴され、25人が実刑判決を受けた。このうち、首相であり大将だった東條英機を含む7人が絞首刑に処された。 朝鮮半島で戦争が起こったら、尹錫悦大統領やシン・ウォンシク前国防部長官の言うように、果たして軍事同盟国である米国と合同作戦を展開し、圧倒的な力で早期に戦争を勝利で終わらせられるだろうか。韓国に同盟国の米国があるなら、北朝鮮にはロシアがある。また、韓国に軍事協力国である日本があるなら、北朝鮮には中国がある。韓国に米国の核による支援の約束があるなら、北朝鮮には最小数十発から最大で100発以上の自国の核爆弾がある。尹錫悦政権はいかなる理由と根拠をもって、圧倒的な力で北朝鮮との戦争に勝てると大口をたたくのか。非常に理解し難い。 勝利する戦いより、戦わないことの方がよい。再び南北の戦争が起これば、その被害は130万人以上が死んだ70年あまり前の朝鮮戦争とは比べものにならないほど大きくなるだろう。古代ローマで将軍が凱旋(がいせん)式をおこなった際、部下がそばで「メメント・モリ(死を記憶せよ)」という言葉を繰り返し叫んだという。勝利を満喫してばかりいないで、いつかは死ぬということを意識して謙遜、自重せよという意味だ。今度は参謀や秘書が大統領に「ニュルンベルクと東京の裁判を記憶せよ!」と叫ぶ番だ。 イ・ビョンホ|南北教育研究所長・教育学博士 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )