『新宿野戦病院』今年一番の賛辞を送るに相応しい作品に 宮藤官九郎が描いた“希望”の正体
未知のウイルス“ルミナ”が猛威を振るう2025年。ECMOを確保できたおかげで啓三(生瀬勝久)は無事に生還を遂げ、バッシングの矛先を向けられたNPO法人Not Aloneは解散し、舞(橋本愛)は歌舞伎町から行方をくらます。そして7月になり、感染者数が何日か減少傾向にあっただけで“一定の効果”があったとして緊急事態宣言は解除される。それでも歌舞伎町では路上飲みが横行し、浮かれ騒ぐ者たちでごった返したクラブでは床が崩落する大事故が起きてしまうのだ。 【写真】地面に倒れ込むヨウコ(小池栄子) 9月11日に最終回を迎えた『新宿野戦病院』(フジテレビ系)。前回はがっつりと、ルミナウイルスによる生死をめぐる混乱と不安の渦中が描かれていたが、今回はそれが沈静化し、第二波を警戒する状況――すなわち“アフタールミナ”の世界が映しだされていく。マスクを着けなくてはいけない、酒を飲んで騒いではいけない、緊急事態宣言は我慢の期間で解除されたらすべてが元通りになると言わんばかりの安直さと思考停止モードは、たしかに4年ほど前の新型コロナの時代、現実世界に存在していたものだ。 オンラインでテレビ番組に出演し、第5話に登場した政治家の川島(羽場裕一)に苦言を呈するヨウコ(小池栄子)は、ウイルスの名称にされて不当に扱われている歌舞伎町の街にも戦っている者たちがいる現状を訴え、こう告げる。「感染源はわからない。これだけは言える。運んだのは人間です。犯人探しは意味がない」。これもまた、2020年のあの時、見えない不安感を少しでもほぐすかのようにスケープゴートにされた歌舞伎町の街や、そこで生きる者たちの存在を想起させられる。 簡潔にいえばこの最終話は、あらゆるイレギュラーな事態によって露呈される人間の弱さが重ねられていくことで、現代の歌舞伎町の、あるいはこのドラマのスタイルでもある“混沌(=カオス)”とした空気が構成されるエピソードといえよう。そういった点では第1話の空気感に回帰したようでもあり、その一方でこれまでのエピソードで積み重ねてきた聖まごころ病院の医療従事者としての矜持もしっかりと発揮される。ぐるりと遠回りをするようにしてまた同じところに戻ってくるけれど、なにかが良き方向へと変わっている。それはまさしく、新型ウイルスの時代における“希望”の正体なのかもしれない。 それだけに終盤の展開は、ある意味ではヨウコという存在をまごころから引き離す(つまり可能な限り最初の状態に戻す)ための必然であったわけで、やや矢継ぎ早にまとめられていく点も致し方あるまい。現にエピローグ部分にあたる2027年のシーンでは、亨(仲野太賀)が院長となってまごころは存続し、舞はカウンセラーとしてまごころに常駐するようになり、ヨウコはどこか遠く、中東の戦場でペヤングを広めている。彼らは“ルミナウイルス”を経験したことで(あるいはこれまで描かれたあらゆる出来事を経験したことで)しっかりと前へ進んでいるのだ。そういえば、ヨウコが連行されるシーンでムハマドが再登場したけれど、第1話でヨウコが日本に来た理由であったアリからの手紙はその後どうなったのだろうか。 いずれにせよ、24年前に『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)で池袋の街に生きる若者たちの生き様を“若者の代弁者”として物語った宮藤官九郎は、今作では歌舞伎町というより狭いエリアにどこからともなく集まってきた世代も性別も国籍も境遇も様々な者たちの群像を、“時代の代弁者”としての立場で描くことに成功した。ここには2024年の歌舞伎町の現在が包み隠されることなく映されており、現実と希望、いつか来る非常時のための警鐘もある。そしてまた“平等”をはじめあらゆる言葉だけが一人歩きして形骸化しきった時代における“生き方”のヒントも提示する。こうしたテーマを、徹頭徹尾コメディとして駆け抜けた点において、今年一番の賛辞を送るに相応しい作品であったと断言したい。
久保田和馬