岡田茉莉子「映画『秋津温泉』で引退するつもりだった私を止めてくれたのは、亡き夫・吉田喜重監督。内気な私が女優になったのは宿命だったと思えるように」
長年連れ添った夫・吉田喜重監督を見送って1年半。鮮やかに思い出されるのは、人見知りだった少女時代、女優としての成功とプロデューサーとしての挑戦、そして夫と過ごした幸せな時間――と、岡田茉莉子さんは言う。夫婦で映画に情熱を注ぎ続けた軌跡と現在の心境について語った(構成:篠藤ゆり 撮影:宮崎貢司) 【写真】夫婦揃ってのツーショット。岡田さんが吉田監督を〈スカウト〉して以来、仕事も人生も二人三脚で歩んできた * * * * * * * ◆女優をしながらプロデューサーも経験 後に夫となった吉田喜重との縁は、私が彼を監督として《スカウト》したことがきっかけで始まりました。私は18歳で映画デビューして以来、9年間で80本を超える映画に出演。 そんな私のもとに、あるプロデューサーが、27歳の新人監督が書いた『ろくでなし』というシナリオを送ってきたのです。それは、私が今まで経験してきた映画とはまったく違っていた。「こんな脚本を書く人が出てきたんだ。すごい才能!」と思いましたし、本当に新鮮でした。 できあがった作品を観て、さらに衝撃を受けました。それまでの映画の概念を覆すものだったからです。この作品が吉田喜重のデビュー作であり、彼の映画は後に日本のヌーヴェルヴァーグと称されるようになります。 1961年、松竹は私の映画出演100本記念作を作ろうと言ってくれました。私自身が企画し、監督、キャストを決めていいという願ってもない話です。ただし、プロデューサーとして予算も含めて全責任を持つのが条件でした。 じつはその少し前、1作、自分で企画・プロデュースした作品『熱愛者』があります。当時、女優が自分の主演する映画をプロデュースする例はほとんどなかったと思います。でも映画に夢中になっていた私は、このチャンスに飛びつきました。 ただ、それなりにうまくはいったものの、100%満足はできなかった。ですから捲土重来(けんどちょうらい)を望んでいたのです。
100本記念に選んだ作品は、藤原審爾(しんじ)の小説『秋津温泉』。私は少女時代から読書ばかりしていましたが、初めてこの小説を読んだときから、いつか映画化できたらと心の中で温めていたのです。 監督は、吉田喜重にお願いしたかった。でも会社に言うと、「彼は原作ものはやらないから、断られますよ」。人を介してお願いしたところ、案の定断られました。 そこで、直接会って説得することに。最初は断られましたが、粘りに粘って(笑)。原作通りでなくてもいいとお話ししたところ、監督が出した条件は、「私たちの世代には、敗戦は避けて通れない出来事です。主人公である男女の青春に、それがどのような影を落としたのか。それを描きたい」。 監督と同い年で戦争経験のある私は、もちろんその考えに異存はありませんでした。62年に完成した『秋津温泉』は大ヒット。私はこの作品で毎日映画コンクール女優主演賞など、さまざまな賞を受賞しました。私の目に狂いはなかった。その思いは今も変わりません。 じつは受賞の祝賀パーティーで、引退を表明するつもりでした。女優人生で、この先、これ以上いいことはないだろうと思ったからです。それまで自分には不向きだと思ってきた映画の世界で、精いっぱいがんばってきた。でも、もう自由になりたいというのが素直な思いでした。 控室で、私は母と吉田監督に心の内を打ち明けました。すると母は「あなたの好きにしたらいい」。ところが監督は、「あなたは青春をすべて映画に捧げてきました。辞めてしまってはもったいないとは思いませんか?」。 その言葉に、「そうだ、これまでの時間を否定してはいけない」という思いが湧き上がり――結局、引退は表明しませんでした。