「人の運命を見るのは好きじゃないの」 射殺された「天才霊感少女」藤田小女姫の数奇な人生
不鮮明な生い立ち
真相の見えにくい事件の謎と一緒に、彼女と息子吾郎の血縁に関する数々の推論が噴き出すことになる。遺骨の引き取りや遺産相続、保険金の受け取りが、一筋縄では片付かなかったのだ。 藤田小女姫の生い立ちについては、不鮮明なことが多い。母のほかに家族はなく、親戚付き合いも薄く、さらに戸籍の縁戚関係は複雑に入り組んでいる。 藤田小女姫こと東亞子は、福岡県福岡市にあった鉱山会社に勤める父常吉と母久枝の長女として、昭和13年に生まれている。彼女が4歳のときに両親は離婚し、母子は各地を転々とした。この間の足取りはまったく不明で、いま分かっているのはその8年後、産経新聞に登場した当時、二人が横浜市鶴見区に暮らしていたということぐらいだ。 古い雑誌記事をめくってみた。 昭和36年、銀座で貸金業を営む男性との結婚を控え、23歳の小女姫は「婦人公論」3月号に寄せた手記で、めったに語ることがなかった母久枝と自身の少女期について、簡単に触れている。ついでながら、この結婚はわずか3年で破綻した。 「母が離婚されて、横浜の祖父の家に帰って来ていたとはいえ、その苦労は並大抵のものではなかったと思います。 母は、わたしを立派に育てたいため、弱い体をむちうちながら、寮の舎監をしたり、ある会社の秘書をしたり、また終戦後には、ひょっとしたゆきがかりで、横浜に進駐したばかりの兵隊さんのために、ランドリーをひきうけたりして、ママさんランドリーなどと呼ばれました」
異母弟は語る
『東亞子と洋三』(出版研)という書籍が、平成16年に出版されていた。著者の藤田洋三は、東亞子の死後に縁者の名乗りを上げた腹違いの弟で、彼女より5歳年下だ。著書にある東亞子の素性は、にわかに信じがたいほどに奇怪である。 単刀直入に、洋三に聞いてみた。 「つまり戸籍上では、あなたと東亞子さんは母違いの姉弟ですが、記載はすべてでたらめで、本当は、あなたと東亞子さんが実の姉弟ということですね」 「そういうことです」 書籍によれば、東亞子と洋三は、さる大物右翼活動家と、のちに著名な政治評論家の妻となる女性との間に生まれている。洋三は生後間もなく、東亞子は5歳のころ、誘拐同然に戸籍上の父常吉の手で、それぞれの母のもとに連れて来られた。つまり、年端もいかない霊感少女が、政財界の顧客をこうも取り込めたのは、のちに雑誌などで小女姫の姿を発見した、実の父母たちの後ろ盾あってのこと、というのだ。 洋三は、実家にあった数々の東亞子の写真と親族の断片的な伝聞、戸籍に記載された地を自分で訪ね歩き、この本を書いたと、持論の根拠を語った。 たしかに、実の父母だと推測する両名と、小女姫との間に、近しい付き合いはあったようだが、なぜそれが親子関係に結び付くのかは、どうも納得しかねた。 小女姫の母方のいとこの一人は、「彼女は、父親(常吉)のことをひどく嫌っていました。父親とは、生前一度だけ会ったことがある、とは聞いています」と語った。ある知人は、「別れた父親が、彼女に金をせびりに来ていると聞いたことがある。そのとき、あの人は、本当のお父さんじゃないのと言っていたな」という古い記憶を口にした。 その言葉が、戸籍の問題を指したものか、彼女の素直な心情だったのかは、いまとなっては誰にも分からなかった。