《ブラジル》記者コラム=金子家渡伯90周年に想うこと=団塊世代2世代目が見せた決意=家族の伝統として日本文化伝える
コロニア歌人・金子秀雄が描く家族
1934年に渡伯した金子家の子孫が、10月26日にサンパウロ市近郊コチア市のレストランに約80人も集まり、移住90周記念祝賀会を開催した。その際、1世世代の家長だった金子秀雄の息子、太郎(71歳、2世)から父の作品集『ひとりごと』(2001年)をもらった。 奥付を見てみたら発行所は、コラム子が昔働いていた「ニッケイ新聞」。「序文」は安良田済(あらたすむ)、「あとがき」は栢野桂山と、取材で世話になった人ばかり。思いのほか距離が近いことに驚いた。 掲載された1938年に書かれた随想「母を想う」には、思わず引き込まれた。その要点を書きだす。《渡伯して四年、私は一日として母を想わない日はなかった。異国に住む子を思うことは、お寺参りかお茶のみより他にすることのない故郷の母には尚更であろう。私を胎にしたまま夫を失い、それより次々数々の苦労の中に老いてしまった母だった。末子であった私がブラジルに渡ってしまった以上、もう自分の見てやらなければならない我子はいなくなった母なのだ》と地球の反対側の母を思いやる。 《渡伯して二年ぐらいは故郷の母へ、月に一度は必ず手紙を出したが、近ごろは二カ月に一度、四カ月に一度になってしまった。母を想いながらも私には一本の手紙がまとまらなくなったのだ。この貧乏生活のありのままの便りは、子を心配する母には出せないし、そうかと言って嘘を書いて母をあざむくことはどうしてできよう》との心情を赤裸々に綴る。 《母は私のブラジル行は反対だった。私が母の胎にいるうちに夫に死なれ、今度は生き別れしようとする子に、うらみの泪で目をうるませるのだった。私は遂に渡船の決心を捨てた。ところが突然に「行きたければ行っていいよ!」という母の言葉に、私は耳を疑った。(中略)「本当に渡伯しても良いよ。あんなに可愛い娘さんが、お前のお嫁となって同行しようと言うのだから…」》という一言に背中を押されて渡伯した経緯が語られる。 だが、最後に《私はブラジルに何をしに妻を連れてきたのだろうか? この国に如何にして生きて行けばよいのだろうか? 私は故郷の母の悲しみを想うたびに、いまだその自分の問いにさえ、はっきりした答えができない自分のおろかさに恥入る》と締めくくられる。 初期の貧乏生活を描写した短歌には《この棉で借金返してしまいたい二年この方かなしい借金》《疲れはてて夕方の小便のこの赤さ淋しさが湧く悔もまじりて》《マンジョカを食べて屁をひる飼犬の屁は憎めない貧乏な俺》《夕飯のすめば疲れてねむくなりメーザを這えるダニを見ている》など、軽妙な雰囲気の中に強い情念が込められている特徴がある。 妻を詠んだ短歌には、《妻の居るはるかな街の病院の明け方の灯に見入るひととき》《生と死の間をじっと耐えながら闘い続ける目を閉じし妻》《病む妻のためにはるばる借りてきた金盗まれた日――巻いた玉菜よ》《貧乏のくらし続けばつづくほど妻を愛さむ歌を作らむ》《屋根裏を堕ちきし青い蛇を見てブラジルは嫌やといいつのる妻》などの熱愛を感じるものが多い。 その一方《死ぬことがなんでもなかったよべの夢――起きて静かにコーヒーを飲む》には、死のうと思った夢まで見た朝、その余韻を噛みしめながらコーヒーを飲むという、ある種、壮絶な姿も描かれる。 この作品に対し、安良田済さんは「序文」で《経済的にも精神的にも切羽つまった、極限に立つ作者が如実に語られている。多くの人が語るのを避けたい屈辱、絶望、挫折のうめき声に満ちている。最近は「もう旧移民の苦労話はたくさんだ」という声をときおり耳にする。こういう人たちは、人間が生きるということは何か、と自問したことのない、いわゆる飽食時代の経験しかないからであろう。この人たちのいう苦労など、金子さんが生きた苦労とは次元がちがうのである》と気持ちいいほどに一刀両断する。 初代1世は7人。このように家族の歴史が始まり、現在は約100人にまで増えている。