《ブラジル》記者コラム=金子家渡伯90周年に想うこと=団塊世代2世代目が見せた決意=家族の伝統として日本文化伝える
ヨシノと間部学の出会い
ヨシノは1930年2月27日、新潟県長岡市生まれ。移住時は4歳だったが現在は94歳だ。「日本でのことは何も覚えていないわ。ブラジルに来たばかりの頃のことも、父に連れられてコーヒー農園に入ってブヨにかまれて泣いたことぐらいかしら。父からあまり故郷の話も聞かなかった。でも『10年でお金貯めたら日本に帰るぞ』と言っていたのは覚えている。でも戦争が始まって帰れなくなった。当時は同じような人がたくさんいたわ。秀雄さんに私たちは育ててもらった」と証言した。 「私たちに日本語を教えるために父は家族で俳句会をやって句集まで作っていた」とのこと。でもあちこちと引っ越しをする中でその句集は無くなってしまった。「今でも残っていたら家族の宝なんだけどね」と惜しんだ。 間部学とのなれそめを聞くとマリリア近くのガリア在住時、「まず秀雄さんが『今時こんなに話の分かる青年は珍しい。とてもしっかりしている』と彼にほれ込んで、秀雄さんに薦められてお見合いした。秀雄さんが学さんの家を訪ねた際、絵がかかっているのを見て、この絵は素人じゃない、きっと絵描きになると感動したと言っていました」とのこと。 間部学は6歳年上。「半年間おつきあいして結婚し、それから二人三脚が始まりました。最初から絵だけでは食べられないので、間部は看板描きとか何でもやりましたよ」と思い出す。あと「弟が一人、まだ新潟に生きているわ。青柳三郎といってやっぱり画家なの」と言った。
親の気質、考え方を引き継ぐ子孫たち
金子太郎は親の芸術家気質を受け継ぎ、画家になった。「年を取ると余計、家族の大事さが身に染みる。孫が4人いるんだけど、ボクがアトリエで絵を描く傍らで、孫が遊んでいる。孫に囲まれながら好きな絵を描くなんて、ボクは夢のような生活をしていると思うよ」と笑った。 この会は2世世代(60~70代)を中心に準備が進められた。中でも言い出しっぺとなったのは、一郎の長女みどり(71歳)だ。彼女にこの会をやる動機を尋ねると「20年ほど前、父が生きていた頃、サンタイザベルの家に兄弟とか親戚を呼んで簡単な移民祭をやったの。今年は家族移住90周年だから、それを思い出して何かやったらどうかと思った」と父の想いを引き継いだ動機を説明した。 さらに「金子家は7人で渡伯して今は4世世代まで広がり、100人ぐらいになっている。私の中には両親から学んだ日本文化が染みついている。それを次の世代、甥っ子、姪っ子に伝えられたらと思ったの。お父さんは家族をとても大切にしていた。私たちもそれを繋げたい」と強調。 最後に「こんなに沢山集まるなんて、本当に呼びかけてよかった」としみじみ語った。この話を聞きながら「これはとても大切なことだ」と痛感した。1世が子供に伝えた想いが、2世の代で途絶えるのか、3世や4世まで伝わっていくのかという瀬戸際で、2世世代が「家族に伝えていこう」と決断したから、この会が開かれた。 当日、太郎、みどり、タダオ、ケン、ヨシノ、オグロ家らがそれぞれ歴史を語り、最後に一郎の孫カルロス・エジガル(46歳、3世)は「我々の家族には団結があり、祝福され、この90周年を祝った。この集まりはとても心強く嬉しいもの。家族の伝統を次の世代につなげる良い機会をもらった」と感謝の言葉を述べた。 ブラジルは、華僑でもユダヤ人でもどんなアイデンティティも溶かす〝民族溶鉱炉〟だ。移民コミュニティは放っておけば自然に一般社会に溶け込み、すぐに民族アイデンティティは無くなっていく。それはごく自然なことだが、民族文化を残すことで、多文化社会としてのブラジルを豊かに維持する貢献の道も残されている。 「団塊世代」が2世世代を迎えて、彼らが定年退職する60~70代になった今は、実は大切なタイミングだ。家族会で使われる言語の99%はポルトガル語だ。2世世代の多くは実は日本語もペラペラだが、次の世代は難しいだろう。だからこそ、彼ら2世が親から受け継いだ伝統を次世代に伝えようと決意したことは、とても尊いと感じた。(敬称略、深)