《ブラジル》記者コラム=金子家渡伯90周年に想うこと=団塊世代2世代目が見せた決意=家族の伝統として日本文化伝える
金子家は初代7人から4世まで100人に発展
思えば、最も移住者が多かった「日本移民の団塊世代」が今、90周年、100周年を迎えている。関東大震災が1923年9月に発生し、多くの被災者が海外に活路を見出そうとする出移住圧力が高まる中、最大の送り出し先だった米国で排日移民法が1924年に施行され、行き場を失った。困った日本政府は、ブラジル行きの渡航費を国が補助して後押しする政策を始め、1925年から国策移住が始まった。 そこから1934年7月にブラジルで外国移民二分制限法が施行されるまでの10年間を、コラム子は「日本移民の団塊世代」と呼んでいる。この10年間の総数は約13万2千人で、戦前戦後を合わせた数の半分以上を占めるからだ。 その「団塊世代」の最初1925年組は来年移住100周年を迎え、最後の1934年組が今年90周年を迎えている。 その一つがこの金子家で、初の大規模な移住記念祝賀会には遠くは南大河州からも集まり、家族史を振り返りながら和やかに半日を過ごした。 1934年、新潟県長岡市に生まれた金子博治(ひろじ)と従兄弟の今井コウジは、第一次世界大戦後、日本が昭和大恐慌などで大不況に見舞われての生活が苦しくなる中、家族とともにブラジル移住を決意した。今井家は同年5月30日に神戸で乗船して57日間の船旅を経て、7月26日にサントス港に到着した。金子家はほぼ同じ時期に出発し、到着は8月24日だった。両家族はサンパウロ州アグドス市のコーヒー耕地に配耕された。 金子家では、妻チセを新潟で亡くした博治が、長女フミとその配偶者秀雄に加え、3人の子供を連れて移住した。長女フミは移住前に小林秀雄を婿養子として迎え、この金子秀雄が家長となって渡伯した。 博治は残りの長男一郎、次男忠次(ちゅうじ)、三女ヨシノを連れて渡伯した。次女美代は日本で結婚し、三男三郎、四男四郎は日本に置いてきた。この三女ヨシノは、間部学画伯と結婚し、間部ヨシノとなり、数少ない1世世代として会に出席した。この金子家初代7人の子孫からはさまざまな人材が輩出している。 例えば、東京工業大学で博士号を取得した者、経営学修士(MBA)の上級幹部、大手銀行取締役、弁護士、医師、歯科医、修士号を持つ大学教員、建築家、過去に三井物産に勤務していたとか、日本に鶏肉を輸出する企業を経営するなど日本に関係のある仕事をしている者や、農業製品やダクトなどを生産するカナフレックス(KANAFLEX)社社長などのビジネスマン、建築家、画家とビジュアルアーティストなど、ブラジル社会に深く広く根を張っている。