巨大なボディにテールフィンのド派手なスタイルは飛行機やロケットがモチーフだった? 黄金期のアメ車 in『スーパーアメリカンフェスティバル』
今回で31回目を数えるアメリカ車の祭典『Super American Festival at お台場』がダイバーシティ前にあるお台場ウルトラパークで2024年10月20日に開催された。アメリカ車の黄金時代と言えば1950~1960年代。途方もなくデカく、ピカピカのクロームメッキで光り輝き、派手で大胆なスタイリングがこの時代の特徴だ。そんな往年のアメリカ車が数多くエントリーするのがアメフェスの魅力のひとつだ。今回はエントリー車両を紹介しつつ、これらのクルマが生まれたバックボーンを語って行くことにする。 REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu) とてつもなく大きく、きらびやかで、派手で粋な 1950~1960年代に生まれた黄金期のアメ車 【画像】とにかくデカイ!アメ車の黄金時代。。 アメリカ車の黄金期と言えば、1950~1960年代であることに異論を挟む人は少ないだろう。この時期にデトロイトが世に送り出したクルマといえば、全長5mをゆうに超える巨大なボディ、きらびやかに光り輝くボディに配されたクロームメッキパーツ、天高くそそりたつテールフィン、そして低く唸りを上げる大排気量のV8エンジンと、ストリートを流せば誰もが振り返るような絢爛豪華なマシンだった。 この時代のアメリカは朝鮮戦争や公民権運動の高まり、キューバ危機、ケネディ暗殺などの衝撃的な事件はあったものの、ベトナム戦争の激化や大気汚染の深刻化、キング牧師暗殺などのアメリカ社会のあり方に大きな影響を与える事件はまだ発生しておらず、オイルクライシスの前ということもあってアメリカ社会……とりわけ白人社会においては、大量生産・大量消費に裏付けられた平和と繁栄が無限に続くものと無邪気に信じられた時代でもあった。 たしかに1957年のスプートニクショックによって、核戦力を背景にしたアメリカの軍事的な優位は崩れつつあったが、そのことに心を砕いていたのは政府関係者と軍高官くらいなもので、米ソの見える形での競争が宇宙開発という一見すると平和的なもの(ロケット技術=核投射手段であるミサイル技術なので、その実態はまったく平和的ではなかったが……)にすり替えられたことにより、大衆は能天気にアメリカの最終的な勝利を信じていれば良かったわけである。 この時代の人々の関心といえば、音楽や映画などの娯楽、メディアの旗手として急速に普及したテレビ、自動化により年々便利になる家電、郊外に整備された美しい住宅、余暇として楽しむレジャーやスポーツ、そしてよりパワフルに、より巨大に、より快適に、より便利にと毎年のようにモデルチェンジを繰り返していたビッグスリーの新型車に向けられていた。 科学技術と明るい将来への「夢」と「憧れ」を具現化した 1950~1960年代のアメリカ車に当時の大衆は恋をしていた そんな平和と繁栄の時代に登場したアメリカ車は、未来への夢と科学技術と宣伝に溺れており、より大きく、派手で大胆なスタイリングを纏ったクルマほど人気を集めていた。これらのクルマは機能美とは対極にある装飾美に価値感を置かれており、資本主義に裏付けられた大衆社会が生み出したデカダンスであった。このような例は職人の手作りによる戦前のフランス製超高級車にあるくらいで、大衆向けの量産車として考えると、長い自動車史の中でもかなり異質な存在と言えるだろう。 しかし、同時にアメリカ人の過剰なまでのクルマへの要求が、カーエアコンやカーオーディオ 、AT、パワーウインドウ 、パワーステアリング、オートライトなど、今日では一般的となったさまざまな快適装備の発展を促すことになった。なんともなれば、当時のヨーロッパはまだ戦後復興の途上であったし、日本はようやく乗用車生産に踏み出したばかりで、両地域のユーザーにとっては、簡素な装備の小型大衆車でさえまだまだ高嶺の花であり、移動手段としてのクルマを入手することさえ難しかったからだ。 そんな彼らからすれば、空調の効いた車内でラジオから流れる音楽を聴き、イージードライブで快適に移動するという発想すらなく、一部の高級車を除いてそのような需要もなかったことから、日欧の自動車メーカーはこの方面の技術でアメリカ車の後塵を拝しており、積極的に技術開発をしてまで快適性を充実させようとは考えなかったのだ(これらの技術が日欧の自動車に普及するのは1970年代末頃から)。 1920~1930年代にビッグスリーは、自動車販売におけるスタイリングの重要性にいち早く気づき、綿密なマーケティングや、それに基づく定期的なモデルチェンジにより消費者の購買意欲をくすぐる「計画的陳腐化」と呼ばれる販売戦略を世界に先駆けて経営に取り入れている。 1950~1960年代はそんなアメリカの自動車メーカーの経営戦略に磨きがかかって円熟した時期でもあり、製品であるクルマもスタイリング、性能、品質、装備、快適性のいずれの面でも世界の自動車メーカーをリードしていた。アメリカの大衆はそんなアメリカ車に夢中になっていた。その熱狂ぶりはまさしく恋愛にも似た感情だったと言えるだろう。 しかし、永遠に続くかと思われたアメリカ車の天下は、1970年代に入ると徐々に陰りを見せ始め、やがてオイルショックを機に終焉を迎えることになる。アメリカ社会が暗く厳しい現実をつきつけられるようになると、アメリカのユーザーは自分たちが恋焦がれていたモノの正体が冷徹な商業主義と企業の論理の産物に過ぎないことに気づいてしまい、彼らの熱情はすっと冷めて行った。アメリカの大衆とクルマとのロマンスの終わりである。 これ以降、自動車大国アメリカにおいても人々のクルマへの興味は薄れてしまうのだが、恋の魔法が解ける以前のアメリカ車は、何の憂いもなく豊かで明るい未来を信じられた幸福な時代への郷愁とともに、大衆がクルマに抱いていた「夢」と「憧れ」を具現化したイコンとして、アメリカ人だけでなく、今なお世界中にいる多くのファンを惹きつけてやまない。 第二次世界大戦後、スピードと強さへの憧れから航空機がモチーフに 2024年10月20日に「お台場ウルトラパーク」で開催された『Super American Festival 2024 at お台場』(以下、アメフェス)の会場には、そんな1950~1960年代に作られたさまざまなアメリカ車がエントリーしていた。 これらのクルマを今あらためて見ると、スタイリングはオーバーデコレーションで、走る・曲がる・止まるという自動車の機能とデザインが伴っていない印象を受ける。無駄な装飾を廃して機能と合理性を追求した欧州車や、経済利得性と実用性さえ優れていればカタチなんてどうでも良い、とでもいうようなスタイリング不在の昨今の日本車を見慣れた目にはかなり奇異に映るだろう。 この当時のアメリカ車のモチーフとなったのは、科学技術の象徴としてのロケットと、スピードの象徴としての航空機だ。 戦後型のアメリカ車は、1948年型キャデラックを皮切りに、第二次世界大戦中に「双胴の悪魔」として枢軸国パイロットに恐れられたP-38ライトニング戦闘機の尾翼からインスピレーションを受けたテールフィンを採用するようになる。登場当初、控えめなサイズに留まっていたのテールフィンだったが、1950年代中盤から徐々に巨大化して行き、そのデザインも丸みを帯びたP-38の尾翼から、ジェット戦闘機を彷彿とさせる鋭角なものに変化して行く。そして、ピークを迎えたのが1958~1960年頃のことで、その頂点に君臨するのが、歴史に残る名車として現在も高い人気を誇る1959年型キャデラックだ。 面白いのは、テールフィンのみならずフロントマスクにもP-38をモチーフにしたクルマがあることだ。それは1950年型スチュードベイカー・チャンピオンで、丸みを帯びた中央のノーズを山の頂として左右に向かってなだらかな谷となり、フェンダーに仕込まれたヘッドライトを頂点に再び盛り上がるというトリマラン(三胴船)構造のフロントフェイスが特徴となっている。 スタイリングを手掛けたのはレイモンド・ローウィ事務所に所属していたロバート・ボーケで、彼はエンジンを2基搭載した双発・双胴機であり、中央胴にコクピットを持つP-38の構造を乗用車のスタイリングで再現しようと試みたようなのだ。それに先立つ1947年型から採用された大胆なリヤのラップラウンド・ウインドと相まって、他のクルマにはないスチュードベーカーならではの個性となった。 科学技術の最先端、ロケットもまたスタイリングに取り入れられる そして、航空機とともに黄金期のアメリカ車のスタイリングに影響を与えたのがロケットである。先ほども述べた通り、当時は米ソ宇宙開発競争が竹縄の時代であった。大衆の科学技術に対する信仰は厚く、その最先端を象徴する宇宙開発……その先兵であるロケットを人々は羨望の眼差しで見つめていたのだ。こうした世相に敏感に反応したのがビッグスリーを頂点とするアメリカの自動車メーカーだったのだ。 最初にブレットノーズを採用したのは1949年型フォードだった。フロントグリル中央のリングの中に収められた丸い突起が「バレットノーズ」(砲弾の頭)と呼ばれる装飾で、フォードの場合はロケットというよりもジェットエンジンのインテーク・コーンのようにも見える。これが時間のを経過とともに1個だったものが2個に増え、次第に大型化してロケットのノーズコーンのように迫り出してくるのだ。歩行者保護の厳しくなった現在では危険な突起物とみなされるのだろうが、当時は「丈夫なバンパーに堅牢なシャシー、厚い鋼板を使ったボディがあれば安全はすべてこともなし」という程度の意識だったので、これでも問題はなかったのだろう。 この時代のアメリカ車は「ギャラクシー」「コメット」「サテライト」などの宇宙に関連した車名が多かった。そんなことからも人々が科学技術に「夢」と「憧れ」を抱いており、そうした良好なイメージがクルマにも重ねられていたことがわかる。 バブル景気でアメ車の魅力を再発見した日本 長引く経済的低迷中も愛車を維持し続けるオーナーたちの心意気 新車当時を除くと1950~1960年代のアメリカ車が日本で脚光を浴びたのは、今から35年ほど前のバブル景気の頃だ。その当時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だの「金満日本」だの「山手線の内側の地代でアメリカ全土が買える」などといった言説が世に溢れ返り、史上空前の好景気に国中が沸いていた。その当時は強い円を背景に世界中のありとあらゆる商品が次々に日本に上陸し、飛ぶように売れていた時代だ。 クルマももちろん例外ではなく、輸入車がちょっとしたブームとなっていた。ユーザーの大多数はベンツやBMW、ポルシェなどのヨーロッパ車を選んでいたわけだが、クルマ好きのタレント・所ジョージ氏がホストを務めるクルマ番組やコラボした自動車雑誌が若者を中心にウケており、日本車にはない大らかさと豪快さを求めてアメリカ車を買い求める層も多かった。その多くがフォード・トーラスやシボレー・アストロ、カプリス、カマロなどの正規輸入車を購入していたのわけだが、アメリカ車を好む人間の中には巨大なボディに派手で大胆なスタイリングを持つ黄金期のアメリカ車に魅力を感じ、中古並行で手にするユーザーも少なからずいた。 世は史上空前の好景気ということもあり、若者でも電話1本で500万円くらいのローンならロクな審査もなく通った時代だ。渋谷や六本木、新宿などの都心部の繁華街では、往年のキャデラックやトライシェビー、インパラなどを乗り回す若者の姿を見かけることが珍しくはなかった。 だが、弾けないバブルはない。バブル崩壊後にやってきたのは、みなさんご存知の通りの経済の長期低迷だ。この当時、日本に上陸したアメリカ車は、不況により人々の暮らしが貧しくなると維持するのにも負担となり、もてあまされてちょっとした故障がきっかけで、そのままスクラップヤード送りとなったり、空き地に放置されて土に返ったクルマも少なくはない。 アメフェスの会場に集まったアメリカ車は、そうした厳しい時代を生き延びて、現オーナーの元で大切にされている幸運なクルマたちも多いのだろう。日本は排気量が増すごとに高額化する自動車税に加え、「古いクルマはとっとと捨てて新しいクルマに買い換えろ!」と政府が強要するかのような新車登録から13年以上が経過したクルマへの自動車税への重課、暫定と言いつついつまでも高い税金を取り続ける重量税、高額なガソリン税+昨今の燃料費の高騰など、排気量が大きく、燃費面で不利な古いアメリカ車に乗り続けるには適した環境とは言えない。 もちろん、古くなれば維持費も相応に嵩むわけで、数々の苦労を乗り越えて古いアメリカ車を維持し続けるアメリカ車オーナーたちの心意気は見上げたものだ。彼らの存在があればこそ、我々オーディエンスは毎回アメフェスで古き良き時代の素敵なアメリカ車を見られるわけである。願わくば、今後もアメフェスとアメ車ファンのためにも素敵な愛車を維持していただきたい。 『スーパーアメリカンフェスティバル』レポートバックナンバー
山崎 龍
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