異例の豪華ボクシング・プロテスト実現で未来の世界王者候補が3人同時合格
3人目は最重量、スーパーライト級の高橋だ。身長172センチで通常体重は72キロ。ミドル級日本王者の竹迫にみるからに重たそうな右ストレートをズシン、ズシンと打ち込んでいく。 「懐かしさがこみ上げました。後楽園独特の足のふみこみ具合や風景があるんです」 3、4年と、主将を務めた東洋大時代に何度もリーグ戦で試合をしたリングだ。 第1回U-15全国大会の60キロ以下級の優勝者。この大会で井上尚弥も別の階級で優勝しているが、決勝でKO勝利したのは高橋一人だけで、しかも、相手が体重超過だったため、グローブハンディをつけた上でのKOだった。名門の南京都高(現京都廣学館高)へ進み、選抜、インターハイ、2度の国体制覇の4冠。東洋大へ進学後、当時、選手兼コーチだったWBA世界ミドル級王者の村田諒太に教えを受けた。中量級の高橋は、五輪前には村田のスパー相手を務めることもあり「相手というか、玩具です(笑)。村田さんの背中をずっと見てきました」という。村田が薫陶を受けた故・武元前川先生の最後の教え子でもある。 だが、平成5年生まれの高橋は、ここまで少々遠回りした。 大学4年で右膝を故障。「プロにいってもパフォーマンスを出せない」と引退を決意して外資系の医療器具メーカーに就職した。他の新卒よりも好収入を手にしてボクシングとは、一切縁をきった。すぐに福岡に転勤となり、運動は接待ゴルフで動く程度。体重は80キロを超えた。 「心の奥底にはずっとプロがあったんです」 高校で1学年上の大森将平(ウォズ)が世界挑戦し、3学年上の久保隼(真正)が世界王座を獲得したのを見て「俺もできるかな」と、封印していたものが目を覚まし始めた。トドメは、村田が世界王座を取ったアッサン・エンダム戦。福岡の自宅テレビで見たが「背中を押されました」。翌日、中学時代に基礎から叩きこまれた高校の先輩でもあるワールドスポーツの藤原俊志トレーナーに電話を入れた。 「決めました。お世話になりたいです」 藤原は、その電話口で泣いた。それほど、思い入れのあるボクサーだったからだ。 「これまで僕が見てきたボクサーで最もパンチ力があります。重硬い。そんな質のパンチです。誰かに怒られるかもしれませんが、神の右です。彼の人生なので無理に誘うことはしませんでしたが、よく決断してくれました。この階級の世界は簡単ではありません。でも拓磨を世界王者にしないと誰をするんだという責任があります」。3日後に会社に辞職を伝えると、営業成績がよかっただけに「どこかに引き抜かれた?」と、転職を疑われ、プロボクサーへの転向とは信じてもらえなかったという。 「人生は一度きり。やるときにやらないと後悔する、やれるのに、できへんではもったいない」 24歳の決断だった。 上京しジムの合宿所に入りトレーニングを始めたが、ブランクの間に、たっぷりと脂肪がつき、ぶよぶよに錆付いた体は悲鳴をあげた。藤原トレーナーの持つミットを3ラウンド打つだけで腕がパンパンになり力が入らなくなった。3か月間は、バイトをせずに3部練を課した。6時からロードワーク、昼に基礎練習、夜には実戦練習。安定した生活を捨てたことを「やっぱり転向は遅かったか」と悩んだこともあったが、ようやく「体や体力は70パーセントくらいまで戻った」という。 「KOこそがプロの美学」 藤原トレーナーの教えが、そのまま高橋のプロ哲学だ。 「一戦一戦、目一杯戦っていけばチャンスはくると思います」 高橋は6月2日に後楽園で、竹迫の試合の前座でデビューすることになっている。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)