死刑執行後も冤罪議論が続く飯塚事件。破格のドキュメンタリー『正義の行方』監督が語った「疑問」
「顔が見える」オールドメディアに託す思い
─弁護団が証拠を精査する中で、警察による誘導尋問や見込み捜査、あるいは科警研のDNA型鑑定の改竄や捏造が行なわれていた疑惑が浮かび上がってきますが、「疑わしきは罰せず」ではなく、まるで「疑わしきは罰する」として進行しているかのように、本作を通して感じました。警察の捜査、あるいは日本の刑事司法についてはどのようにお考えですか。 木寺:警察が悪いと言うのは簡単なんですが、結局は裁判に問題があると感じています。坂田さん(元捜査一課特捜班長)が「裁判官の心象に任す以外に方法ない」と言うのが象徴的で、要するに警察官は仕事としては証拠や調書を上げるだけなんですよ。それを精査するのは検察であり裁判官であるので、裁判官が、もし何かあれば「これは恣意的な捜査になっていないか」って本当は指摘しなきゃいけない。 DNAのことも裁判官がわかるわけないので、本当は科学鑑定ができる人が裁くべき。それはアメリカがちゃんとしていて、科学的なことを俎上に上げるための基準が設けてあり、それに則ってすべて精査されていく。いかに主観を排除するシステムを持てるかが大事だと思うんですが、日本にはまったく見当たらない。だから、転がり出したら歯止めが効かない。結局それを止めるシステムがない。 例えばアメリカにはスーパーデュープロセス(超手続き主義)と言って、有罪か無罪か決めて、死刑を執行する前に、その犯人に精神疾患がないか何代も前に遡って調べたり、あるいはDNAを検査するためにお金が国から補助される。検察と被告が均等になるようなお金の補助があるんですよね。一方で、日本では弁護士は全部手弁当で、証拠にアクセスもできない。システムの不合理性の上で死刑が決まってしまう。 ─飯塚事件では、まるで急いで起訴され、刑が執行されたかのような手続きも見られ、疑わしさも感じました。本作を通して、死刑制度をどのように思われましたか。 木寺:被害者遺族の番組をつくったときに死刑を望む方々の声も直接聞いて、それも否定できないと思っているので、私自身は死刑に反対でも賛成でもないんです。ただ、死刑制度というより、司法の制度に危うさがあると思っています。人が人を裁くというのは、本当にできることなのか。しかも死刑のように人を殺すところまでいくことを、特に日本は、どの程度の覚悟をもってやっているのか。日本は、裁判官が自分の心証で判断していいという自由心証主義で決めるわけですよね。それは主観でいいということですが、本当にちゃんと精査した上で判断しているのかどうか、誰も確認できない。その辺が本当に緩い。人が人を裁くことの難しさをわかったうえでシステムも構築されていないとダメだと思うんですよね。その延長線上に死刑があるとは思っています。 ─テレビ版から映画へのリメイクで、メディアの役割とは何かという問いがさらに前面に押し出されているとのことですが、具体的な違いはどういったところですか。 木寺:映画では、オールドメディアへの視点を厚くしました。西日本新聞が実践していることは、もし間違いがあったら直す、取材対象者に真摯に向き合って多角的に伝える──宮崎さん(元記者)の言葉で言えば、それぞれの正義を相対化する──ということだと思うんですよね。それは、それぞれの取材対象者に多角的に当たらないとできない。 そういうことができるのが、顔の見えるメディアではないかと思います。それがいまの時代にいちばん大事なことだと考えて、テレビ版よりも宮崎さんの分量をかなり増やしています。 ─事件当時、最初のスクープを報じた宮崎さんが、「どこか一つの正義に寄りかかるのではなく、つねにいろいろな人の正義を相対化した視点で取材をして記事を書く」ことを学んだという言葉は本作を象徴するものだと思います。彼は「ペンを持ったおまわりさんにはなるなとよく言われるが、ペンを持ったおまわりさんでした」と自戒の弁を述べられます。 木寺:メディアの存在が冤罪を生む、メディアが力がないところは冤罪あるいは戦争を生む──つまり、冤罪はメディアの大衆煽動の力も作用して発生する一方で、メディアが権力監視の役割を果たしていなければ戦争や冤罪が生まれてしまう──という図式はたぶん間違いないと考えています。そのなかで西日本新聞の自社報道を検証する取り組みには、ああいうことをやっていかないといけないと励まされました。 現在の日本の政治も司法も、何か間違いがあったらやり直せばいいのにと思うんですよね。アメリカでは検察庁のなかに冤罪を防止する組織を作っているところがあって、自分たちがすでに有罪にしたものでもおかしいという申し出があったり、再調査で浮かび上がったことがあったら、もう1回調べ直すんですよ。それで無罪になったりしてるケースもある。でもそれが日本はなかなかできない。メディア含め、そういう検証というものを素直にもっとやればいいのにと思うんですね。それをできる宮崎さんたちはやっぱり、すごいなと思います。 ─西日本新聞の中島さんが「裁判所は、司法というのは、信頼できるんだ、任せておけば大丈夫なんだというふうに呑気に思ってきたけどもそうではない」と語る言葉も深く印象に残りました。中島さんと、日本には裁判を批評する文化がなく、その決定を神のように讃えることへの疑問を話されたそうですね。 木寺:今回、特におかしいと思いました。御簾の奥の天皇のように特別扱いし、裁判自体を神棚に奉っている。批判ではなく、普通に批評して然るべきなのにという気がします。これは、たぶん司法記者クラブのせいじゃないかと思います。文句を言うと取材できなくなるから。日本は昔から江戸時代の大岡裁きみたいに、御上の「これにて一件落着!」の世界がずっと続いているということなんでしょうね。自分と関係ない話だと誰がどうなろうと全然興味がないというような、日本の国民性も結構影響しているのではと思います。 ─書籍のエピローグでも触れられていますが、2024年2月、弁護団は2人の女児を最後に見たとされる目撃者が当時の供述を覆したという新証拠の存在を明らかにされました。本作の完成後の動きについて教えてください。 木寺:おそらく早くて5月か6月には、第二次再審請求審の判決が福岡地裁で出るのではないかと弁護団は言っています。その新証拠は出していますが、どういうふうに審理されるか、弁護団もそう楽観視していないと思います。再審開始となるのはそこまで甘くないだろう──なぜならすでに死刑が執行されているから。これがもし再審とか無罪とかになったら、大変なことになりますよ。過去に遡って、死刑案件をすべて洗い直せみたいになりかねないですから。
インタビュー・テキスト by 常川拓也 / 撮影・編集 by 今川彩香