関ヶ原の戦いで家康相手に「正面突破の負け戦」、島津義弘に学ぶ「意味ある負け方」とは?
負けると分かっている戦いで、最後までどう戦うか――その負け方が、後々のその人の未来を左右することがある。連載『歴史失敗学』第6回では、関ヶ原合戦で島津義弘が繰り広げた「負けいくさ」での戦いぶりを見ながら「全力で負ける」意味を考える。(作家・歴史研究家 瀧澤 中) ● 41人の議員票を集めた議員の 自民党総裁選の「負け方」 戦いには「趨勢」というものがあって、状態が固まってくれば挽回できない局面が必ずやってくる。実はこの「負けが決まった段階で何をするのか」というのが、未来に大きな影響を及ぼすことはあまり指摘されない。 「どうせ負けるんだろ」と気力を欠いた負け方をすれば、次につながらない。逆に最後まで気力を振り絞り、勝った側をして瞠目させる負け方は、確実に次につながる。 今回の自民党総裁選――9人が立候補して8人は落ちた。敗れたある候補は、そのフォロワー全員のカンパによって陣営を支えた。候補がカネを出して戦う従来の総裁選ではあり得ない光景である。 もちろん勝ちを目指したが、終盤、決選投票に臨むのが難しいのは明らかだった。それでも、ポストやカネにならないのを承知で41人の議員票が集まったことに驚いた。最後まで陣営は崩れず、おそらくこの先、この塊は何事かを成してくれると感じさせるのである。 今回取り上げるのは、関ヶ原合戦で世界史にもまれな「敵前・前進後退」をやってのけた戦国武将・島津義弘である。敗戦必至の中でのすさまじい撤退戦。その行動の末に島津家が得たものについて、読者と共に考えたい。
● 味方の敗勢が決定的になるまで 島津勢は動かなかった 慶長5(1600)年9月15日。今の暦でいえば10月20日。朝8時ごろからこの小さな台地で始まった戦いは、東西4キロ、南北2キロが決戦場となった。陣を構えたのは東西両軍約20万人。西軍に属した島津義弘は、西軍の事実上の大将・石田三成の陣からほんの少し離れた場所に陣取っていた。 石田三成の陣所には雲霞のごとく徳川方である東軍が攻め寄せたから、島津勢はかなりの危機感を持って戦勢を見守っていたであろう。 やがて小早川秀秋の裏切りもあり、西軍は押しまくられる。時刻はおそらく正午過ぎ。西軍の敗勢が決定的になるのは午後2時ごろで、それまで島津勢はまったく動かなかった。 動かなかった理由は諸説あるが、そもそも島津勢は兵が少なかった。島津義弘が率いていたのはおよそ1500人。石田三成は近江佐和山19万石で6000人を動員したが、島津家は70万石の大名でありながら諸般の事情で人員を戦場に動員できなかった。 この小兵力ゆえに、島津は二番手の備えとされていた可能性が高い。結果、目の前で西軍が崩壊し、出撃するタイミングがなかったというのが本当のところであろう。