学徒動員で奪われた青春 長野県木曽郡大桑村の田中昭三さん語る
長野県木曽郡大桑村須原の田中昭三さん(96)は、長野師範学校(現信州大学)予科2年生だった昭和19(1944)年8月から約10カ月間、学徒動員され、東京の鉄鋼工場で働いた。東京大空襲の悲惨な光景を目の当たりにし、自身も空襲を経験。戦争に振り回され「貴重な青春の時間を無駄にされた」生活だった。 同級生約120人と、蒲田(現大田区)の工場に向かった。田中さんは出来上がった製鋼品を周辺の工場に運ぶ役割で、零(れい)式艦上戦闘機(ゼロ戦)の機関銃の弾となる鋼材も運搬した。トラック運転手は朝鮮半島から徴用されてきた人たちだった。 貴重な楽しみは仕事が休みになる日曜日。仲間と東京見学をし、書店や映画館に通った。一方で、戦況は悪化していった。米国の爆撃機・B29が「昼間から悠々と」上空を飛び、周辺地域で頻繁に空襲があった。 20年3月9日夜、東京大空襲で燃えさかる町が宿舎から遠目に見えた。数日後、運搬の帰りに被害区域を通った。トタン板だけになった民家の下に、隅田川の水面に、至るところに遺体があった。堤防に並んだ遺体に身内がいないか、泣きながら確認する人たちがいた。「地獄のような情景」に、その晩は涙をのみ食事が喉を通らなかった。「昨日のような記憶」と語る。 蒲田も、大規模な空襲を受けた。4月15日夜、空襲警報で防空壕(ごう)に避難すると、「ダダダとものすごい音」がして焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。辺りは一面、火の海となった。仲間と必死に近くの多摩川沿いに走り、身を潜めた。夜明けになると、焼け野原の中で宿舎だけが残っていた。戻ると20人ほどの仲間が現場でずっと消火をしていたと知った。奇跡的に同級生で犠牲者はいなかった。 やがて工場は生産不能となり、動員は6月に解除された。同級生全員が上野駅から夜行列車で帰った。その後多くの仲間は教師となり、田中さんも木曽などで教壇に立った。 平成14(2002)年、動員を振り返る文集『滅私の風の中に』を同級生一同で作った。田中さんは冊子の中でこうつづる。「戦争ほど非情で、無意味で残酷なものはない」。世界各地で武力衝突が起こる現在、平和への願いをあらためて強めている。
市民タイムス