「親父でもプロになれるんだから、俺もなれるわ」高校生・山崎福也の宣言に父「ヒドいこと言うな(笑)」…巨人&日本ハムOBの父が語る「親子の物語」
巨人での10年間は「濃い時間」
一軍デビューまで、6年かかった。指揮官は長嶋から藤田元司を経て王監督になっていた。一軍初出場は86年6月の広島戦。リリーフとして登板した槙原寛己の代打だった。 「一軍はいいところやな、何とかここにしがみついていかな、って。でも当時は代打にも凄いバッターがいた。僕は結局、一軍と二軍を行ったり来たり。それでも、ジャイアンツでの10年間は自分にとって濃い時間になりました。勝つことは宿命という球団でしたから、勝利への意識や執念というものはしっかり学びました」
ひたすら見て寄り添っていく指導
日本ハムに移籍後の1991年シーズン限りで現役を引退。一軍出場は40試合余りだったが、12年間ユニフォームを着続けられたのはひた向きに野球と向き合い、チームのために身を粉にして様々な役割をこなした章弘さんの姿勢あってこそだった。その人間性への高い評価は、指導者への道につながる。現役引退後、日本ハムではのべ12年間にわたりコーチを任され、中日、巨人でもブルペン担当コーチや巡回打撃コーチとして若い選手の指導にあたった。 「僕なんか選手としては一軍で特に実績もないですから、何億ももらっている選手には何も言えないですよ。言えないけれど、コーチをやる以上はそれじゃダメ。だからひたすら見るしかないな、と思いました。ピッチャーなら何球投げてどういう内容だったのか、バッターならどういうことに取り組んでどんなバッティングをしていたのか。自分のことのようにひたすら見て寄り添っていく。それだけは徹底していました」
指導哲学なんてないですけど…
NPBを離れても、指導者のオファーは引きも切らずに届いた。独立リーグの高知、兵庫など複数球団の監督やコーチなどを歴任し、現在は女子硬式野球チーム「兵庫ブルーサンダーズ」の監督を務める。多忙な日々は続いている。 「63歳になりましたが、お陰様でまだ野球をやらせてもらっている。本当に感謝ですね。指導哲学なんてないですけど、下手なこと、苦手なところを矯正するより、好きなこと、得意なことを伸ばしてあげた方がいいとは思っています。短所を改善しても行き詰まる。でも元々上手いところを追究していけば限界も超えられると思うんです」
【関連記事】
- <前編>15歳で「生存率10%」の難病が発覚…日本ハム・山崎福也の父が振り返る「小児脳腫瘍」からの復活「ダルビッシュ有に力をもらった…不思議だね」
- 【写真】「カ、カワイイ!」山崎福也の子供時代が可愛すぎる! 父に抱っこされる“サチ”の少年時代~現在の写真を見る
- 【相棒が明かす】日本ハム移籍でもう6勝「バットを持つと輝き増す」山崎福也…オリックス時代の“相棒”が語る「サチさんの素顔」
- 【親子秘話】「おかん、頑張るよー!」スタンドに何度も叫んだオリックス・宗佑磨…“母一人子一人”支えてくれた感謝の想いは「恥ずかしくないんで」
- 【あわせて読みたい】「万波は終わった」と批判も…横浜高恩師が語る、万波中正が“伸び悩む怪物”だった頃「毎朝、電子レンジの前に立って…」