「親父でもプロになれるんだから、俺もなれるわ」高校生・山崎福也の宣言に父「ヒドいこと言うな(笑)」…巨人&日本ハムOBの父が語る「親子の物語」
ドラフト2位で巨人入団の父
キャッチャーとして強豪・育英高校で活躍した章弘さんは、1980年にドラフト2位で巨人に入団した。当時の監督は長嶋茂雄。エースは江川卓、4番は王貞治(現ソフトバンク会長)。中畑清や篠塚和典ら若手が一軍に定着し始めた輝かしい時代だった。 「高校時代は僕もお山の大将みたいな存在でしたが、プロに入ってみたらそこは別世界でした。右を見ても左を見てもテレビに出ている人ばかり。それが同じユニフォームを着ている。憧れ、驚き、訳わからない気持ちでしたね。投げたり打ったりということも結構自信を持って入ったのに、全く歯がたたないし相手にされない。『とんでもないところに入ったな。辞めて帰りたい』と思いました」
18歳で突然アメリカへ
とはいえ、2位指名した強打の捕手に球団は期待をかけていた。ルーキーとして参加した初めての宮崎キャンプ。サブグラウンドで練習をしていると、突然向こうから人だかりが押し寄せてきた。数百人の報道陣を引き連れて歩いてきたのは、長嶋監督その人。章弘さんを探して呼び寄せ、満面の笑みでこう口にした。 「う~ん、ベロビーチねぇ」 ドジャースのベロビーチキャンプに派遣する米国留学メンバーとして“白羽の矢”がたった。ついこの前まで高校生だった18歳は突然アメリカへ。若手3人で約3カ月間チームに加わり、キャンプやオープン戦にも参加した。
スパイク磨き、ファンレター仕分け…
「もう訳がわからなかったです。レッズとオープン戦をやった時には(メジャーで通算311勝を挙げた)トム・シーバーや、(MLB史上最高の捕手と言われた)ジョニー・ベンチとか、有名なメジャーリーガーがうじゃうじゃいた。僕はメジャーに余り詳しくなかったので、日本に帰国して雑誌を見て彼らが凄い選手だと分かりました。写真撮っておけばよかった! って。あの時は残念でしたね」 黄金期の巨人で一軍への道は険しかった。大きな壁となったのは正捕手である山倉和博。当時は捕手を併用するチームは少なかった。章弘さんは、練習に没頭するとともに、若手選手の大事な役割である“下積み仕事”にも明け暮れた。 「山倉さんのスパイクを磨いていました。先輩のスパイクがずらっと並んでいるのを綺麗に拭き上げて戻すのは若手の仕事です。洗濯物も仕分けしてランドリーバッグに詰めて、クリーニングから戻ってきたものをロッカーに配る。バス掃除もありましたね。寮では5、6台ある電話の前で電話当番や郵便配りも当番制で若手がこなすんです。ファンレターが毎日カゴいっぱいドサッと届くから、それを仕分けして配る。一番多かったのは定岡正二さん。ダントツでしたね。入りきれへんから、定岡さんの郵便物だけは大きなバケツに入れていました」
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