一家の没落とともに世を去った藤原定子
ところが、同年4月に道隆が死去したことをきっかけに、一族の未来に影が差すようになる。 翌996(長徳2)年1月に、兄の伊周と隆家が女性をめぐる誤解から花山(かざん)法皇を襲撃するという事件が発生した。伊周・隆家捕縛のために、検非違使は二人が身を寄せていた定子の屋敷に乱入。この時、定子は兄らの事件を受けて、内裏を出て自身の屋敷で謹慎していたのだという。驚きのあまり、懐妊中だった定子は自ら剃髪し、出家してしまう(『栄花物語』『小右記』)。 通常であれば、出家は結婚生活の終焉を意味するもので、仲睦まじかった一条天皇の驚きは相当なものだっただろう。涙を隠しながら気の毒がられた、と伝えられている(『栄花物語』)。 さらに、同年中に母の貴子も病死。直後に、定子は念願の第一子(脩子/しゅうし/ながこ/内親王)を出産しているが、幸せというには程遠い気分だったに違いない。 それでも一条天皇の定子への愛情が変わることはなかった。一条天皇は生まれた脩子内親王とともに内裏に呼び寄せ、定子を還俗させている。異例の対応をもって定子への変わらぬ愛情を示した一条天皇だったが、一度、出家をした定子の参内に対し、「天下、甘心せず」(『小右記』)すなわち、冷ややかに見たり、よそよそしい態度をとったりするなど、あからさまに反発の姿勢を見せる者も宮中には多かったようだ。 999(長保元)年、着々と権力固めを進めていた藤原道長は、自身の娘である彰子(あきこ/しょうし)を入内させた。道長は、定子の父である道隆の弟である。 同年末に敦康(あつやす)親王を出産し、翌1000(長保2)年に皇后となった定子だったが、道長は入内させた彰子を中宮にさせている。つまり道長は、天皇にとっての正妻が二人同時に存在する、という前代未聞の状況を作り上げた。 そして同年12月、定子は媄子(びし/よしこ)内親王を出産した翌日に容態が急変し、亡くなった(『日本紀略』)。衰弱する定子を見舞った伊周が顔を見た時には、すでに冷たくなっていたという。享年25。伊周、隆家兄弟が政治の中枢から外され、実家が急激に没落していくなかでの死だった。
小野 雅彦