旧二条城跡に「第3の堀」将軍義昭が信長怖さに急造!?
公開された旧二条城跡の発掘調査現場 THEPAGE大阪
たったひとりの男への恐怖心が、権力者をして、見栄をかなぐり捨てての防御に駆り立てる。権力闘争の厳しさや人間の不思議さを浮き彫りにする遺構が、京都市内で発掘された。しかも、当代の有能な外国人観察者の記録通りに、遺構が出土したというからリアリティがある。戦国乱世の緊迫感がよみがえる発掘現場へご案内しよう。
伝わってくる臨戦態勢の緊迫感
京都市上京区の旧二条城跡。二条城は織田信長が1569年(永禄12)、最後の室町幕府将軍 足利義昭のために築城した。民間調査団体「古代文化調査会」(神戸市)の発掘調査で、築城後に信長と対立した義昭が、信長を恐れて新たに築いた第3の堀の跡とみられる遺構が出土。このほど見学会が開かれ、多くの歴史ファンらが詰めかけた。 旧二条城は四方が300メートルを越える広さ。写真の大きな窪み全体が、第3の堀の跡と推定される。写真右手南側に外堀、写真左手北側に内堀があったとみられ、現場は外堀と内堀の中間地点に位置する。写真奥の東へ向かって延びていた第3の堀の一部が発見された。 堀の幅は最大7メートル。底部は2段構成で、もっとも深い場所は3.4メートルの深さに達する。義昭の陣取る北側が敵兵の侵入を防ぐ急斜面になっている上、防御用の柵を設けていたとみられる柱の穴の列が残っていた。実戦を強く意識した構えで、堀には水を張っていたとみられるが、工事を急いだためか石垣は築かれていない。
記録通りの出土で記録の正確さを改めて実証
急ごしらえの堀とはいえ、堀跡の現場に立つと、かなりの迫力を感じる。古代文化調査会代表の家崎孝治さんは「私も堀跡が出土した当初、あまりの高低差に足がすくんだ。発掘スタッフに落下しないよう、注意を促したほどだった」と振り返る。ベテラン研究者が驚くほどの堀の高低差は、信長に対する義昭の恐怖心の大きさを証明しているともいえそうだ。 ここで、ひとりの人物が登場してくる。宣教師ルイス・フロイスだ。フロイスは布教の傍ら、「日本史」など多くの著作や記録資料を残している。ルイスの記録によると、信長と義昭の対立が深まった1573年(天正元)、信長を恐れた義昭が旧二条城に新たな堀を作り、弾薬を備え、兵士を集めたとある。 「フロイスは、旧二条城が3つの堀を備え、落としがたい城だったと、記録している。フロイスの記録通りに第3の堀の遺構が出土したことで、フロイスの記録の正確さが改めて実証されることになった」(家崎代表)