61歳の妻に先立たれたことで「死」と向き合って…ロシュフーコー、三木清、夏目漱石。古今東西の賢人は死と生をどうとらえてきたのか
2022年、61歳の奥様に先立たれたというベストセラー作家の樋口裕一さん。10歳年下の奥様は、1年余りの闘病ののちに亡くなられたとのことですが、樋口さんいわく「家族がうろたえる中、本人は愚痴や泣き言をほとんど言わずに泰然と死んでいった」そうです。「怒りっぽく、欠点も少なくなかった」という奥様が、なぜ<あっぱれな最期>を迎えられたのでしょうか? 樋口さんがその人生を振り返りつつ古今東西の文学・哲学を渉猟し「よく死ぬための生き方」を問います。 【書影】ベストセラー作家は自分の妻の死をどう受け止めたのか?『凡人のためのあっぱれな最期』 * * * * * * * ◆死について 一度は癌の手術に成功するも、再発が発見した妻。それからの7か月間、体力がだんだんと失われて、生命力がなくなっていく日々は本当につらく、苦しかっただろう。 しかし、抗癌剤で苦しんでいる時を除いて、妻は大きな声でいつも通りの生活を送っていた。いつも通り、明るい声で語り、笑っていた。 闘病中の人間を持つ家庭は暗くつらいものだと思うが、その中でもそれほど暗い気持ちにならずに済んだのは、妻本人がずっと泰然とし平気な顔でいたからだった。おそらく妻は深刻な様子を見せなかっただろうから、誰もがすぐに回復すると思っていたに違いない。 私を含めて、妻は誰にも死について嘆くことなく、苦しみを口にすることなく、あっぱれな最期を迎えたのだった。 だが、それにしても、なぜ妻はこのようなあっぱれな死を迎えられたのか。そもそも、妻はどのような死生観を抱いていたのだろう。死をどうとらえ、生をどうとらえていたのだろうか。 これまで多くの死生観が語られてきた。小説や詩の中、哲学書の中、演劇や映画の中などに死についての考えが散見される。思うに、ある程度の長さの小説や映画であれば、人の死がかかわらないことはほとんどないといってよいだろう。 ミステリーや戦争もの、ヒーローものはもちろんのこと、それ以外のものであっても、肉親や知人、あるいは主人公の死が語られる。 作家たち、哲学者たちは、どのような死についての意見を吐露しているのだろう。その中に妻の死生観に近いものはあるのだろうか。妻の菫としての死生観はどのような系譜に属するのだろう。 多くの人の死生観をざっと思い出してみる。そして、私なりに整理してみる。
【関連記事】
- 61歳で先に逝った妻。生命力がなくなる中でも嘆くことなく明るい声で語り、笑って…ベストセラー作家の夫を驚かせた<あっぱれな最期>
- 手術が成功するも癌が再発…医者から「緩和ケアしか残されていない」と告げられた妻が言った「私あんまり頭がよくなくてよかった」の真意とは
- なぜ10歳年下の妻は少しも死に動じないまま<あっぱれな最期>を迎えることができたのか…夏目漱石の名句から見出したそのヒントとは
- 田村セツコ「70歳で、91歳の母とパーキンソン病の妹、3人での暮らしを決意。老老介護も疲れを感じなかった」【2023年4-9月ベスト記事】
- 江原啓之「〈終活〉は誰のため?子どもに言われてやる終活は、生きる力を失う死に支度。大切なのは、生きがいをなくさないこと」