<連載 僕はパーキンソン病 恵村順一郎>ぐるるっ ぐるるっ 人間と共生2千年 カエルは僕の先生 絶滅などしてもらっては困るのだ
7~8世紀の万葉集でカエルは〈河蝦鳴く神南備川に、影見えて、今か咲くらむ。山吹の花〉などとうたわれた。また、10世紀の古今和歌集の仮名序にはこうある。〈花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。〉 この国でカエルが鶯と並び称されるほど人間と近い関係となった最大のきっかけ――それは弥生時代(紀元前3世紀~3世紀)に列島に広がった水田稲作である。 両生類であるカエルは、オタマジャクシの頃は水中で暮らす。水辺から離れては生存できない。きれいな水が浅く張られた水田は絶好の生息環境だ。一方、人間にとっても、害虫を食べてくれるカエルは心強い稲作の「援軍」である。 代かき、水入れ、田植え、草刈り、中干し、稲刈り、秋おこし。人間の稲作のサイクルにあわせて、カエルたちは繁殖活動にいそしんできた。それは、約2千年の時を重ねて育まれた人間とカエルの「共生」に他ならない。
高村光太郎(1883~1956)が「彼は蛙でもある。蛙は彼でもある」、高橋順子さん(1944~)が「おのれの中に蛙を見、蛙の中におのれを見た」とそれぞれ評した詩人がいた。草野心平(1903~88)である。 〈さむいね/ああさむいね/虫がないてるね/ああ虫がないてるね/もうすぐ土の中だね/土のなかはいやだね/痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね/腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉 「秋の夜の会話」 〈るてえる びる もれとりり がいく。/ぐう であとびん むはありんく るてえる。/けえる さみんだ げらげれんで。/くろおむ てやらあ ろん るるむ かみ う りりうむ。/なみかんた りんり。(略)〉 「ごびらっふの独白」 前の詩は冬眠前の2匹のカエルの会話を「人間語(日本語)」で書いたものだが、後の詩は「蛙語」で書かれている。 草野は「蛙語」をも自在に使える「半人間半蛙」、言い換えれば人間とカエルの「共生」の象徴的存在だと自らを任じていたのかもしれない。