京から越前はたいへんな難路。輿を担ぐ人夫は、なぜか紫式部から「世の中は辛いものだよ」と諭されて…『光る君へ』為時の越前赴任エピソード
◆世間知らず やがて琵琶湖北岸の塩津(現滋賀県長浜市西浅井町塩津浜)に上陸した。 塩津は陸上でも湖上でも、京と北陸道を結ぶ交通の要衝であった。 近年、湖底にある旧塩津神社の発掘調査が進められており、興味深い木簡が出土している。 近江と越前の国境である塩津山を越え、敦賀に入った。 「深坂越え」と呼ばれるこの道は、現在のJR近江塩津駅から新疋田駅の間に、古道がよく残されている。 北陸本線の深坂トンネルの上にあたる。疋田の北側に、かつて愛発関が設けられていたという説が有力である。 塩津山を越えた際には、紫式部の輿(こし)を担ぐ「下賤な男で粗末な身なりをした」人夫の、「やはりここは難儀な道だなあ」というぼやきに呼応した歌を詠んだ。 知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道は からきものぞと (お前たちもわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴(な)れている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが) 輿の上の姫君から、「世の中は辛いものだよ」と諭されて、輿を担いでいた人夫たちもさぞや驚いたことであろう。 まだまだ紫式部も若くて世間知らずだったのである。
◆思い出したくなかった 敦賀からは、海路で杉津に上陸して元比田から「山中越え」をするにせよ、陸路で木ノ芽峠(現福井県敦賀市新保。JR北陸本線の北陸トンネルの上)を越えるにせよ、今庄まではたいへんな難路である。 その後、湯尾峠(現福井県南越前町今庄・湯尾)を越えて、越前国府(えちぜんこくふ)に入った。 この間に詠った歌は、『紫式部集』に載せられていない。 よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう。 『延喜式(えんぎしき)』では、京と越前との日程は4日とされているが、これは租税の運上に関わる規定である。 国司の下向ともなれば、さらに多くの日数を要したはずである。 ※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。
倉本一宏
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