なぜ「水俣病」は対応が遅れたのか? 活かされなかった「足尾鉱山鉱毒事件」の教訓
今年5月1日、水俣病の患者・被害者団体と環境大臣との懇談中、環境省の職員が団体側のマイクの音を絞り、発言を遮った行為が大きな非難を呼んだ。公式認定から半世紀以上が経つが、補償を巡る訴訟は今も行われており、後遺症ふくめ苦しみは続いている。改めて、なぜ水俣病がここまで拡大したのか、原因を振り返りたい。 ■工場内でも危険性を指摘されていたのに… マイク音切り問題が大きく報じられたことで、水俣病に再び注目が集まった。 水俣病とは熊本県の水俣湾沿岸で発生した病気で、公式に発見されたのは1956年のこと。ほぼ同時期に発見された新潟県阿賀野川流域の第二水俣病(新潟水俣病)、三重県四日市市の四日市喘息、富山県神通川流域のイタイイタイ病とあわせ、「四大公害病」と呼ばれている。 他の公害病に比べても、水俣病は賠償金の支払いや患者救済の大前提である被害者認定が遅れている。いったい何が違っているのか。この点については、ウェブサイト『國學院大學メディア』から2019年2月5日に配信された同大学法学部教授の廣瀬美佳教授による「水俣病の被害拡大はなぜ止められなかったのか 発生源対策を行わない企業、それを後押しした国の関係性」に詳しい。 廣瀬教授は次のように喝破した。 「水俣病をめぐる問題が長期化した理由は、『加害者の振る舞い』が稚拙だったことに尽きます。つまり、加害者が行うべき『被害者の救済』と『発生源対策』について、きわめて対応が不十分でした。その背景には、当時の国策や地域の環境も影響していたといえます」 ここで言う「加害者」とはチッソ(当時の日本窒素肥料、のちに新日本窒素肥料に社名変更)を、「発生源」は有機水銀の一種「メチル水銀」を水俣湾に垂れ流していた同社の水俣工場を指している。 公式発見より前、水俣工場の技術責任者が問題の可能性を上層部に報告していたが、内部でもみ消されてしまっていた。 ■行政も積極的に動かなかった 公式発見後もチッソは、「自社が発生源であることを認めない」という姿勢を貫きながら、猫を使って実験に着手していた。400号と名付けられたその猫は実験開始から3か月後に痙攣発作などを起こしたが、チッソは実験の責任者である同社付属病院の院長に口止めをし、実験結果を公表しないどころか、実験を行った事実まで隠蔽した。 メチル水銀を含む工場排水を水俣湾の魚が取り入れ、その魚を口にした人間が発病。単純なメカニズムに思えるが、チッソは頑なに責任を認めず、行政のほうも工場の操業を規制できる立場にありながら、実行に移さなかった。高度経済成長が軌道に乗り始めたその時期、重化学工業の中核を担う存在だったチッソに「待った」をかけることを憚ったからと考えられる。 だが、水俣病の被害者救済が遅れている理由はもう1つある。それは水俣がチッソの企業城下町に近かったことである。 ■活かされなかった足尾鉱山鉱毒事件の教訓 町の経済がチッソに支えられていた関係上、チッソを全面擁護する住民も少なくなかった。彼らによる被害者叩きが起こるなど、住民間にも対立構造ができてしまった。それもあったからこそ、チッソは頑なな姿勢を維持することができた。 チッソが問題製品の製造を停止したのは1968年5月のこと。日本政府が、病気の原因が工場排水にあるとの見解を示したのは同年9月のことで、その前月にはチッソの労働組合の大会で、会社に責任追及をしなかったことを「恥」とする宣言が発せられていた。 前例がないから、対処の仕方がわからなかった。いまだにこんな弁明をする人間もいるようだが、日本の公害病には否定しようのない前例があった。明治時代に起きた足尾鉱山鉱毒事件がそれで、行政の姿勢、町の置かれた状況は水俣のそれと瓜二つ。前例の悪い点が踏襲された形で、田中正造が草葉の陰から見ていたとしたら、さぞ落胆したに違いない。
島崎 晋