二十歳のとき、何をしていたか?/ピーター・バラカン 何が起こるかわからないのが人生だ。 明確な目的もないまま学んだ日本語が まさか夢を叶えることになるとは。
日本語の勉強とロックに明け暮れた日々。
「これというはっきりした理由がないんです」。ピーター・バラカンさんは、ロンドン大学日本語学科に進学した理由をそう明かす。まさかこんなラフな選択が、バラカンさんの現在の活動へと続くことになろうとは、シャーロック・ホームズでも推理できないだろう。 【取材メモ】21歳の誕生日プレゼントにバラカンさんがもらったのは、ずっと欲しかった「マーティン」のアクースティックギター。 「そもそも大学に行きたい強い動機もありませんでした。ただ、18歳で就職するのが嫌だった。当時のイギリスの大学は、授業料が無料だったので、入れるなら入っておこうくらいの気分だったんです。とはいえ、イギリスの大学は日本やアメリカと違って、1、2年でいろんな授業を受けた上で専攻を決めるのではなく、入学したらひとつのことだけを学ばなければいけません。語学が好きだったので、外国語ならいいかなと思って、あるとき母と色々な言語を次々と候補に挙げていて、その一つとして出てきた日本語になぜかピンときたんです。当時は1968年で、日本がまだ世界に注目されてない時代。日本文化に興味があるとかないとか以前に、出合う機会がありませんでした。なので、日本に対するイメージも特にないまま進学したんです」 かくして、幕を開けたのは日本語漬けの日々。とはいえ、勉強だけに明け暮れていたわけではない。なんせ入学したのは、ロックの黄金時代といわれる1969年。音楽好きのピーター青年がみすみすスルーするはずもない。 「サンタナ、オールマン・ブラザーズ・バンド、ドニー・ハサウェイ……。あの頃は新しい感覚の音楽が次々に誕生しました。だから、めちゃめちゃ充実していましたよね。’69 年と’70 年の夏休みには、ロックフェスにも行きました。まだフェスがなにかもわかってなかったので、寝袋ひとつで行ってひどい目に遭いましたけど(笑)。’69 年のワイト島のフェスはトリがボブ・ディランとザ・バンドだったんですが、何万人も集まっていたし、PAもよくない時代。ビデオスクリーンもないですから、風が吹くと音が聞こえないんです。だから、何を演奏したかは全く覚えてないんです(笑)」 そんな音楽生活をさらに満ち足りたものにしてくれたのが、毎週かかさず聴いていたチャーリー・ギレットのラジオ『ホンキー・トンク』だった。 「ラジオのDJって基本的に滑舌が良くてカッコいい喋りをするものですよね。それが嫌だったわけではないけれど、チャーリー・ギレットは、ごくごく普通に、友達同士で話すかのように、しかも、僕の好きな曲ばかりかける人だったんです。僕もこんなラジオができたらいいな、それが理想の仕事だなと思っていました」 しかし、バラカンさんがその夢を叶えるのは、まだまだ先の話。22歳で大学を卒業したバラカンさんが、せめて音楽関係の仕事をと就職したのは、小さなチェーンのレコード屋だった。 「働き始めて4、5か月で店長になりました。イギリスはどこの会社でも能力さえあればどんどん昇進できる能力主義の国なので、その辺は日本と違います。ただ、ブラックな労働環境だったんです(笑)。9時から19時まで働いて、週休1日。それで週給30ポンドしかもらえず、しかも3分の1が天引きされる。木曜日には電車賃がなくなって、歩いて帰ることなんてこともあったくらいです」 「もっとマシな仕事を探さなきゃ」と考えていたある日のこと。音楽業界誌をめくっていると、日本の音楽出版社「シンコーミュージック」の求人広告が目に飛び込んできた。面接してもらったはいいが、1か月たっても連絡はない。電話が鳴ったのは、諦めかけていたときだった。いわく「10日後に東京に来てほしい」。