“原田平安”放つ魅力 監督と同級「応援する会」炭谷さん語る /京都
<センバツ2019> 就任26年目で龍谷大平安の甲子園通算101勝のうち28勝を指揮した原田英彦監督(58)。「平安が強くなければ京都のレベルは上がらない」との強い信念の下、低迷していたチームを甲子園の常連に返り咲かせ、2014年のセンバツ初優勝など数々の実績を残してきた。1979年平安(当時)卒の同級生で、就任当初から「応援する会」の代表を務める炭谷英毅さん(58)に原田野球の魅力などを尋ねた。【矢倉健次】 炭谷さんが在学したのは、平安硬式野球部に多い時は3桁の新入部員があり、最後は10人程度にふるい落とされていた時代。一度はその門をくぐったものの現実は厳しく、1年の後半からは当時常設だった応援団に入り、最後は団長も務めた。 「原田監督とは野球部と応援団の時からの付き合い。平安野球に憧れて高校に入ったので、93年に監督をやると聞いた時は本当にうれしかった」と語る。チームは75年以降、2回しか甲子園出場がなかった低迷期の最中。15人程度の同級生が自然発生的に集まり、練習環境の改善なども含め、口は出さずに支援するようになった。 「原田監督は野球がうまくても、人間的にだめな選手は使わない。末永く野球ができるようきっちり教えているのがいい」。97年春、監督としての甲子園初出場を機に、同級生約30人が世話人となり正式に会が発足。炭谷さんは急きょ結成された応援団の指導もした。2勝して復活ののろしをあげたこのセンバツを含め、「原田平安」は今回で18回目の甲子園。甲子園は、応援する会の同窓会場になっている。 「20年以上前に月曜の練習を休みにし、水泳やエアロビを取り入れ、チーム内の役割分担を変えるなど、毎年新しいやり方に取り組んでいる。選手との接し方も変え、結果を残しているのは立派」 だが、皮肉なことに侍ジャパンの経験もある炭谷さんの長男、銀仁朗捕手(31)は平安時代、甲子園の土を踏めなかった。「(銀仁朗選手が今季から移籍した)巨人キャンプで原辰徳監督とお話させていただいたら、原田監督と同様のオーラが出ていた」と驚いた。自チームへの強い思い、「強くあらねば」という信念……。ちなみにグータッチやチーム名に「スピリット」という言葉をつなげ始めたのは平安の方が先という。 龍谷大平安ボールパーク(京都市伏見区)では、グラウンド周辺の簡易屋根の取り付けや芝刈りなども応援する会が買って出た。なぜそこまで。「みんな格好いい平安と平安の野球が大好きなんです。その中心に原田監督がいる、こんな楽しいことはないじゃないですか」 〔京都版〕