「臨死体験」はありえる? 「私の身体は私のもの」という考え方が意味する「哲学の大問題」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】「臨死体験」は本当なのか…「私の身体は私のもの」という考え方の「大問題」 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
「私の身体は私のもの」は本当か
孤独死が気になる。私はひとり暮らしの上に酒好きである。パートナーもおらず、同居人は無数の可愛いフィギュアだけである。 ということで、孤独死の恐怖をひしひしと感じている。死んだ途端にもう一人の私がニュ~ッと出てきて、フィギュアたちと一緒に自分の遺体をさっさと処理してくれるといいのだが。 哲学ではプラトンの「魂の不死」という説があった。肉体が滅びても、魂は純粋なものとなって生き続けるということだ。 この考えは、のちにプロティノスによってキリスト教哲学に取り込まれたが、17世紀のルネ・デカルト(1596─1650)以降ヨーロッパでは、人間の生を肉体(物体・機械)と、それに影響を与える精神(機械的物質世界の外にある何か)と、まったく異質な2つの実体に峻別する考えは根強く続いた。 特に哲学をかじっていなくても、「私の身体は私のもの」という直観をもつ人々は、ジョン・ロックの自己所有論に納得するに違いない。ロックは1690年、『統治二論』で、人は生まれながらに自らの身体を所有している、という自己所有論を展開した。 この議論の歴史的意義は、誰もが自分の身体の唯一の所有者である、したがって他人によって自分の身体が所有つまり支配されてはならない、というロジックで奴隷制を否定したところにある。 誰もが自分の身体をはじめとして、それに付随している固有性・資質・能力などの唯一の所有者・支配者なのだから、それらを如何に扱うかということに関しては自身の一存で決められるのであり、決して他人の介入を受けることはないということである。