坂本龍馬は「大事業のコーディネーター」だったと言える理由
昭和史の語り部として知られた故・半藤一利氏は、幕末史についての執筆も案外多い。自称「歴史探偵」が見抜いた歴史の裏側に潜む真実とは――。 【写真】CGで超リアルに再現された「幕末の英雄・坂本龍馬」の雄姿 人間的魅力と度量の大きさで、幕末という時代を駆け抜けた志士・坂本龍馬。 当時はもちろんのこと、いまの時代になっても人の心を惹きつけてやまないその龍馬の人間像を、半藤一利氏は「頭脳だけでなく、人間そのものが開明的だったと言うべき」だと評した。 近世から近代へ――時代を大きく動かした幕末のリーダーたちの言動に、激変するいまの時代を乗り越えていくためのヒントが秘されているのかもしれない。 ※本稿は半藤一利著『もう一つの「幕末史」』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
たった5年で国を揺さぶる男に変貌した坂本龍馬
龍馬の脱藩は文久2(1862)年、これから亡くなるまで、わずかに5年余です。この短期間に超人的な行動力を見せ、幕藩体制の屋台骨を揺さぶりました。龍馬が世に出るのは勝海舟の門人になってから。開国派幕臣の勝の影響下、立場を超えた各藩要人との人間関係が急速に広がるのです。 司馬遼太郎さんは龍馬を「人たらし」と書きましたが、たしかに人間的魅力と度量の大きさがありました。同時代の龍馬評もすこぶるよく、貶す人はほとんどありません。これは権謀術数が渦巻く時代にあって、稀有なことです。 龍馬は学問の素養はありませんでしたが、理解力と咀嚼力が人並み以上に優れていた。勝海舟が世界の情勢を説き、海軍の振興、貿易の必要、人材登用を力説すると、たちまち海運商社の亀山社中を興し、血肉とします。 文久2年という年は、尊皇攘夷運動の波が高まり、京都では暴力や殺人の嵐が吹き荒れていました。さすがの幕府も土台の根腐れが露見し、権力にも翳りが兆してきます。その幕府に対して、まず楯突いたのが長州藩です。長州は朝廷を立てて幕府に対抗します。長州同様、朝廷を梃子に幕府に反旗を翻したのが薩摩藩です。 ただ当時、長州と薩摩は不仲でした。そんな時勢に活躍したのが脱藩浪人・坂本龍馬です。龍馬の大きな業績は2つあります。慶応2(1866)年の「薩長同盟」と翌慶応3年の「大政奉還」です。 実はどちらも龍馬独自の考えではありません。薩長同盟を率先提唱したのは同じ土佐の志士・中岡慎太郎、大政奉還は幕臣・勝海舟と大久保一翁のそもそもの発案です。龍馬の才は独創より斡旋、交渉、説得に発揮されたのです。 なかでも、藩の面子にこだわる長州・桂小五郎(木戸孝允)と薩摩・西郷隆盛を怒鳴りつけ、同盟を締結できたのは、人たらしの面目躍如です。 龍馬は考え方が自由で発想も豊か、そしてイデオロギーにとらわれません。さらに非戦論者で内乱を望みませんでした。龍馬が土佐藩の後藤象二郎を通じて幕府に大政奉還を促したのも、国内戦争を避けるためです。ここが武闘倒幕を企図する薩摩とは相容れません。 私は龍馬暗殺の黒幕に大久保利通がいて、潜伏情報を得て京都見廻組の頭取・佐々木只三郎に知らせたと推理しています。 龍馬は幕末の慶応3年、京都の近江屋で、中岡慎太郎とともに、佐幕の京都見廻組の手により斃れます。司馬さんは「天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、......」と書いています。そして、用がすんだから天に召した、と。 しかし、彼の死後まだ混乱は続きました。龍馬は明治期、一時忘れ去られますが、私は龍馬の魂魄が司馬さんに傑作『竜馬がゆく』を書かせたように感じています。