「日本一の美少年」が“命”の顔に大やけども…三田明、恩師から贈られた言葉を支えに60周年
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム> 「美しい十代」で知られる歌手三田明(77)を先日、インタビューした。昨年、デビュー60周年を迎えた。恩師の作曲家・吉田正氏の「人生はマラソン」の言葉を胸に、意欲満々で61年目に歩み出している。 【写真】 「日本一の美少年」 三田は、63年6月に18歳で日本コロムビアからデビューした舟木一夫の対抗馬として、日本ビクターから同年10月に16歳でデビューした。デビュー曲は吉田氏の青春歌謡「美しい十代」で、大ヒットした。 「中学で先生の勧めでバンドをやっていたけど、歌手になる気なんてなかった。僕は8人兄弟の末っ子で、三男の兄が勝手にオーディション番組に応募して受かったんです」と当時を振り返った。 当時のキャッチコピーは「日本一の美少年」。三田を撮影した大御所写真家・秋山庄太郎氏の言葉を使った。秋山は「彫りが深くて、西洋的な美しさがある。笑顔が実にいい。昔の美男子になかった、かわいらしさがプラスしている」と絶賛したという。 1曲で一躍、人気者になった。翌64年には「若い港」「高校騎兵隊」、同じ吉田門下生だった吉永小百合とのデュエット「若い二人の心斎橋」など、1年間に11枚ものレコードを発売した。 「考えている余裕なんてなかった。朝起きたら、どこどこに行くよ、って。レコードはA、B面ですから計22曲ですよ。(歌詞を)覚えられるわけがない(笑い)。でも、売れていたことは感じましたね」 同年2月に、17歳の西郷輝彦さんが日本クラウンからデビューした。最年長の橋幸夫、舟木、西郷さんが「御三家」として人気を博した。三田は橋と同じ日本ビクターだったため、「御三家」に名を連ねなかったが、3人に三田を加えて「四天王」と呼ばれた。 しかし、20代となり「日本一の美少年」から、大人への脱皮に苦戦した。三田は「有楽町で逢いましょう」などの大ヒットを持つフランク永井さんが大好きだった。吉田氏に「フランクさんのようなジャズっぽいやつをつくってください」と直談判した。 当時、吉田氏に自らの考えで作品を願い出るなど、もっての外だった。同じ吉田門下の橋は「お前は怖いな。俺たち絶対言えないよ」とあきれた。 しばらくして吉田氏から電話があった。「おい、できたぞ」。それがデビュー10周年記念曲となる「赤毛の女」だった。三田はこの曲で、大人の歌手へと脱皮していった。 25歳だった72年にハイジャック事件に巻き込まれたり、32歳の79年には、“命”の顔に大やけどを負った。自宅で天ぷらを揚げていた時に、火がつき、慌てて水をかけてしまったのだ。そんな生死にかかわる事件、事故に遭遇したが、デビュー前に恩師・吉田氏から贈られた言葉を支えに60周年を迎えた。 その言葉は「人生はマラソンだ。止まらず、半歩でもいいから、前に進みなさい。別れ道があったら、自分の選んだ道を行きなさい。もし間違ったら、元に戻って進めばいい。そして、ゴールは自分で決めなさい」だった。 歌手生活60周年は、人生で言えば還暦である。 「まさにその言葉通り人生でした。いくつもの別れ道があった。いくつになっても人生はマラソンなんだ、と思います。これからはファンの方はもちろん、節目でアドバイスしてくれた方々への、恩返しのつもりで歌って行きたいです」 昨年9月に発表した「三田明 六十周年記念アルバム」には、そんな三田の魅力が満載だ。自ら作曲した「同じ時代」「幸せのおすそわけ」は、60年を支えてくれた人々へ感謝を込めて歌う。 思い入れの強い名曲「赤毛のおんな」は、60周年バージョンで収録した。「美しい十代」は、1番をジャズのエルダーバージョン(中高年の楽曲の意味)で、2番以降をオリジナルで歌う。 「あの時代に戻ることはできないが、あの時代の心と思いは永遠に変わりません。『美しい十代』はいつまでも歌い続けます」と誓っていた。【笹森文彦】 ◆三田明(みた・あきら)本名・辻川潮(うしお)。1947年(昭22)6月14日、東京・昭島市生まれ。他のヒット曲は「アイビー東京」「恋人ジュリー」「夕子の涙」「サロマ湖の空」など多数。作詞作曲のペンネームは「明煌(あきら)」。64年から6年連続でNHK紅白歌合戦出場。04年の第46回日本レコード大賞で功労賞を受賞。血液型AB。