日本人で初めてFIFA会長賞受賞の賀川浩さん死去 サッカー界から追悼続々「マイナーだった時代から…」
日本のサッカー記者の草分け的存在で、ワールドカップ(W杯)は14年ブラジル大会まで計10大会を取材した賀川浩さん(かがわ・ひろし=サッカー記者、元サンケイスポーツ編集局長)が5日午前、老衰のため神戸市の病院で死去した。99歳。神戸市出身。 【画像あり】 賀川浩さん死去、99歳 サッカー記者の草分け W杯計10大会を取材 10年に日本サッカー殿堂入り 2010年に日本サッカー殿堂入り、2015年には国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を日本人で初めて受賞した賀川さんの悲報を受け、公益財団法人日本サッカー協会相談役の川淵三郎氏(88)や、同名誉会長の田嶋幸三氏(67)、宮本恒靖会長(47)が追悼コメントを発表した。 ▼川淵三郎氏 僕にとって賀川さんの思い出といえば1962年12月13日の産経新聞のコラムだ。三国対抗サッカーの真っ最中の12月11日、僕は日本代表の合宿を抜け出して大阪で結婚式を挙げ、その日の夕方の便で東京に戻った。脊椎分離でB代表に落ちていた僕は、翌日のディナモ・モスクワ戦でなんとしても活躍したかった。試合は2-2で引き分けに終わったが、前半44分にゴールを決めた。試合後に賀川さんに「花嫁にいいお土産ができましたね」と言われ、「ああ、こういうときはそういう発言をすればいいのか」と教えられた記憶がある。当時、新聞に戦評は出てもコラムが載ることは少なかったのだが、翌日の産経新聞には僕のことを書いた賀川さんの記事が掲載され、それがとてもうれしかった。賀川さんはとても温厚な方で穏やかに取材対象者に話しかける、当時としては稀な記者だった。選手の心情をよく理解されていたのだと思う。厳しい記事も書かれたと思うが、僕の長いサッカー人生の中で賀川さんの記事で不快になったことは一度もない。サッカーを良くしようという思いが第一義にあった。サッカーへの愛情に満ちた、日本を代表するサッカージャーナリスト、それが賀川さんだった。賀川さんに心からの哀悼の意を表します。 ▼田嶋幸三氏 48年前、私が主将を務めた浦和南高校が全国高校サッカー選手権大会で優勝し、賀川さんの記事の中に自分の名前を見て喜んだ思い出がある。賀川さんは日本のサッカー記者の草分け的存 在で、日本代表をはじめ、高校サッカー、大学サッカー、日本サッカーリーグ、Jリーグなど70年にわたって取材された。また、日本がFIFAワールドカップに出場する可能性など全くなかった時代から2014年のブラジル大会まで10回にわたって現地取材された。その功績は世界も認めるところで、2015年にはFIFAの会長賞を受賞された。日本サッカーに携わる者として、また、FIFA理事として誇らしかった。サッカーがマイナーだった時代から世界のサッカーを僕たちサッカー少年に伝えてくださったことに心から感謝している。2022年のカタール大会で日本がドイツ、スペインに勝利したことを隔世の感を持ってご覧になったと思うが、2026年大会では新たな歴史をつくりたい。それが賀川さんへの恩返しになると思う。謹んで御冥福をお祈りします。 ▼宮本恒靖氏 賀川浩さんの御冥福をお祈りいたします。2015年にFIFA会長賞を受賞された後にテレビ番組の企画で対談させていただく機会がありました。当時すでに90歳を越えていらっしゃいましたが、トークは関西人らしいユーモアやウィットに富んでいて、サッカー人としての深い経験や知識から歴史を学ぶことの大切さを学ばせていただきました。当日は予定していた時間があっという間に過ぎてしまったことをよく覚えています。賀川さんが生涯をかけて伝えてこられたサッカーの素晴らしさを継承していき、さらに日本サッカーを発展させていけるようにみんなで力を合わせていければと思います。